虹のワルツ

74. 幼い頃に交わした指きり(美奈子)

抱えた自分の膝小僧は今まで何度も目にしたことがあるはずなのに、どうして今、私はあの日のことを思い出したんだろう。

『ママ、おねがいがあるの』

お母さんに手伝ってもらって作ったクッキーを袋につめて、あの日の私は教会への道を急いでいた。
会えるのも今日で最後だから、二人にクッキーをあげたいの。
そう言うと、お母さんは寂しそうな顔をして、だけどいつもどおりの優しい顔になってクッキーを一緒に焼いてくれた。
ママ、私のこと信じてくれてるのに、裏切ってごめんなさい。
これからしようとすることを考えると、怖くて怖くてたまらなかった。

小学校の友達と離れ離れになるのがイヤで、新しい学校で友達ができるか不安で、でも何より、琉夏くんと琥一くんと会えなくなるのがイヤだった。
ねえ、大人になればきっと、どんな距離だって越えていけるのにね。
だけどそれまで待てるわけ、ないよね。
私たちはいつだって今しか生きていないから。

『だから、わたし、ずっとここにいるの』

唖然とした二人と、思いつめた私の足元に、クッキーを入れていた紙袋が散らばっていた。
それからもう一つ。空っぽになったジュースの缶。
クッキーを食べたら喉が渇いたってごねた私と琉夏くんを見かねた琥一くんが、ズボンのポケットに入ってた小銭で買ってくれたオレンジジュース。
三人で少しずつ飲んで、あっという間に空っぽになってしまったオレンジ色の小さな缶が、夕日に照らされて赤く見えた。

冷たくなった風がさわさわと吹いて、三人の髪の毛を同じ向きに揺らしていた。
誰も何も言わなかった。
私の“決意表明”を聞いて、喜んでくれると思っていたのに。だんだん不安になっていく私の影を飲み込むように、ゆるやかに日は暮れていった。

『……ダメだよ』

ようやく口を開いた琉夏くんは、ただ悲しそうにそう言うだけだった。
琥一くんは、何と言っていいのかわからないように佇むだけだった。

『お母さんとお父さんに、もう会えなくなってもいいの?』

まっすぐな目をしているけれど、琉夏くんは自分のことのように心を痛めているように見えた。
そんな琉夏くんの言葉を聞いて、そして顔を見て、琥一くんも同じような顔をした。
まるで責められているように思えた。
私がここに残ると言えば、きっと二人とも喜んでくれると思っていたのに、どうしてそんな顔をするんだろう。
悲しかった。
寂しかった。
なんでそんな、物分りのいいようなことを言うんだろう。

結局私は、一人だけわんわん泣きじゃくりながら、二人に手をひかれて家に帰り着いた。
どうして一緒にいたい人といることがダメなんだろう。どうして誰もわかってくれないんだろう。
お母さんに怒られるから?お父さんにぶたれるから?
自分だけ残ればいいって言ったくせに止めてくれないのが悲しくて、また会えるように祈るからなんて慰めることしか言ってくれないのがもどかしくて、その夜はずっと泣いていた。
引っ越す日も引っ越してからも寂しさはなくならなかった。ずっとこの埋まらない空白を抱えたまま大人になるんだって思い込んでいたのに、目まぐるしく変わる私の周りの環境と、そして、時間は残酷だった。
すっかり忘れてしまっていたわけじゃない。けれど、思い出そうとしなければ二人の顔も忘れてしまいそうなほど、悲しい記憶は薄れていった。



***



「綺麗な曲だな」
「そうだな」
「夏碕ちゃんが歌ってるの、初めて見た」
「アイツ、歌ったりしねえよな」
「コウも聴いたことない?」
「俺は――……いや、鼻歌は歌うって言わねえか」
「鼻歌だけか……へえ。もったいないね、上手いのに」
「……そうだな」

一曲目を演奏している夏碕ちゃんは楽しそうだった。それを見ながら話している琉夏くんも、琥一くんも。
よかった。なんだか琥一くんは、ここ最近よりずっと素直に楽しそうに見える。まるで憑き物が落ちたみたいに穏やかな顔で、大事なものを見守るみたいな顔をしていた。
琥一くんって、ぞんざいでぶっきらぼうでガサツに見えるけど(こういうこと言えるのも幼馴染の特権だ)、案外細かいこと気にするのかなって思ったりした。
だけど、男の子だって恋したらいろんなことが気になるんだろうな、っても思う。色んなことに悩んだりして、色んな顔をして。そういうことさせちゃうのが全部、たった一人の女の子のせい。
本当は心の中では、『なんで俺がこんな風にならなきゃいけねえんだ』なんて思ってそうだけど、それだって戸惑いながらも嬉しいに違いない。
琥一くんも、今まで知らなかった自分を見つけて驚いたりしてるのかな。私が、琉夏くんのおかげでそう思ってるみたいに。
夏碕ちゃんは少し首をギターのほうに傾げて、危なげなんてない手つきですらすらと奏でている。マイクから離れないようにギターとギャラリーを交互に見ながら、完璧に歌い上げるメロディーに聴き入ってしまう。
初めて会ったときに思ったのと同じ。五月の風みたいに澄んでいて、綺麗な声。
「すげぇな、アイツ……」
まるで自分のことのように目を細めている琥一くんが嬉しくて、私も思わずにっこりしてしまった。
大丈夫。大丈夫だよね。私たちが変なことしなくたって全部、うまくいくよね。
「かっこいいね、夏碕ちゃん」
「うん。自慢のお姉ちゃんだ」
こっそり琉夏くんに耳打ちすると、琉夏くんも目を細めて満足そうに笑った。
琥一くんはステージに見入ってるみたいで、私たちのことを気にもしてないみたいだった。寂しいけど、許してあげる。
だってこれでいいんだから。
「自慢のお兄ちゃんにお似合いだね」
「え?」
琉夏くんは意外な一言を聞いたみたいに目を大きくしてこっちを見たけれど、すぐに顔をステージの方に戻して、少し笑った。
琉夏くんは、きっと何でもわかってるに違いない。

「あのね、琉夏くん」
「ん?」
私は、そっと彼の手を握った。
「あのとき、止めてくれてありがとう」
琉夏くんはまた、ちょっとびっくりしたように目を開いたけど、さっきよりもずっと嬉しそうに笑ってくれた。
「また、会えるように祈ったから。俺の言うこと、当たってただろ?」
「うん。…………でも、私だって信じてたよ?」
「……そっか」
多分、同じこと思い出してたんだと思う。きっと、琥一くんもそうに違いない。

今の私は、あのときの自分と同じことなんてできない。今の自分が十分大人だなんて思えないけど、それでもあのころよりもずっと多くのことを考えていると思うし、自分と同じくらいには人のことを思っている。
離れ離れになったって、もう私たちは泣かないですむ。ちゃんと自分の足で大事な人のところへ歩いていける。そう、何度だって、いつだって。
だってもう、何も犠牲にしたくないから。
琉夏くんはきっとわかってた。ずっと前から、本当に大事なことを知ってたんだと思う。
何かのために別の大事な何かを投げ捨ててしまうなんて、やっぱりできないし間違っている。

誰が言い出したわけでもないけど、いつの間にか私たちは携帯電話を開いて大きく腕を振っていた。
メロディーにのせて、ライブハウスでみんながそうしているように。
光る画面は小さいけど、きっと見えるよね。ここにいるよ。いつだって一緒だよ。私たちみーんな、同じ気持ちだよ。

愛してるなんて言えなくてもわかってるよ。
さよならって言っても、すぐに会えるよ。
最低なことだって、いつか絶対、『そんなこともあったね』って笑えるよ。
誰かの温もりを欲しがったって、そんなのちっとも恥ずかしくなんかないんだよ。

夏碕ちゃんが歌う素敵な歌に包まれて、私たちは穏やかに笑っていた。
最後の曲が終わりそうになっても、寂しくなんてなかった。
歌の中で一番高い音を、切なそうに歌い上げる夏碕ちゃんが、こっちを見ている気がした。
伝わってるよ。夏碕ちゃんが言いたいこと、伝えたいこと、ちゃんとわかってるよ。
あなたが一番、気持ちを知って欲しい人に。

“会いたい”も、“愛してる”も、言えるよ、きっと。

私たちには絶対、ハッピーエンドしか待ってないんだから。

20120502