虹のワルツ

かしゃん――

小さく響いた音は、アクリルでできた薬瓶が落ちた音だった。
それはもともとロミオの――琉夏くんの手のひらの中にあったはずのもの。
彼はミスをしたわけではない。完璧に台詞を発し、ロミオの最期を演じようとしていた。ミスなんてするわけがないって思わせるくらいに、ロミオの悲痛さをあらわしていた。そう、見ているだけで心が引き裂かれそうなくらい。
なのに、飲むはずの毒の瓶は手のひらから落ちていった。ロミオは生き残っている。まだ、息をして目を開けている。
自分の意思の及ばない力に生きることを選択させられて呆然としているロミオの横に、当たり前のように彼女はいた。

ロミオと同じ。生きている、息をして、目を大きく開けている。
彼女は――ジュリエットは、棺の中から身を起こしていた。




76. 遠い永久の約束(夏碕)





『やめて』 と、そう叫んだのは私じゃない。
だけど、心を支配していた辛い想いが自分の口から零れてしまってもおかしくはなかった。
それくらい、この話を見ていたくなくて。だから、思わず口に出してしまったのかと思って慌てて唇を押さえてしまっていた。
なのに、私は何も叫んでいなくて、だけどみんなは唖然としてステージを見上げて、一体何がって思って見上げた先にいたのは、美奈ちゃんだった。
棺の中から起き上がって、ロミオの手の中の瓶を叩き落して、その手を握り締めているジュリエットと、呆然としているロミオ。
二人の顔を見ていれば、これが本来の話の流れじゃないことなんてはすぐにわかる。
何が起こってるのかわからないのは琉夏くんもそうみたいで、ぽかんと口をあけたまま、言おうとした台詞の途中で固まっていた。
そして、美奈ちゃんも。

「あっ――……」

自分が何をしでかしたのかようやく思い当たった、みたいな顔で、焦ったように目を泳がせている。頬は薔薇色で、唇はパクパク動いてて、手はしっかりと大きな手を握り締めている。
こんなジュリエットが目の前にいて、もうロミオが死ねるわけがなかった。
死んじゃう理由なんて、もうどこにもないもの。

「えー、と――ジュリエット……?」
琉夏くんはフォローするように呼びかけるけれど、
「あっ、えっと……」
美奈ちゃんは完全に動転してるみたいだった。
スポットライトのままだった照明がふわりとステージ全体を照らす。音楽もいつの間にかフェードアウトしていて、かけるべき音色を知らされぬまま、二人は即興の台詞をつむぐしかなかった。

「本当に、ジュリエット?」
「は、はい!ジュリエットです!」
慌てて裏返りそうなジュリエットの声に、客席のどこかで誰かが噴出した。
「……え、何?なんで生きてるの?」
「ホントのロミジュリと違くない?」
「学園演劇ってこういう話にしちゃってんの?」

不安そうに囁きあう皆の、ざわめきまでさざなみの様に広がっていく。少しずつその波はステージのほうへ寄せていき、再び黙り込んだ二人の耳にも届いているみたいだった。
琉夏くんは少し困ったようにちらっと客席を窺い、美奈ちゃんは狼狽し、あたふたしながら大きく叫んでいた。

「るっ!……あの、ロミオ様!ジュリエットは、元気です!」

きっと、自分で引き起こしてしまったこの状況をなんとかしたかったんだろう。
ジュリエットは――美奈ちゃんは多分、『自分が死んでいないこと、生きていること』を言いたかったはずなのに、あまりの動揺のせいでそんなことを言ってしまったに違いない。
支離滅裂な台詞は余計に客席の笑いをかって、そこかしこから息が漏れるような笑い声が聞こえてきた。
そして、ステージの上では、

「ブッ……アハハハハハ!」

誰にも負けない大きな笑い声が起こっていた。またも唖然とするギャラリーを置き去りにしたまま、
「え、ちょ、ろみ――わっ!?」
「ジュリエット!よかった!」
ロミオは、琉夏くんはいきなり、美奈ちゃんを抱きしめた。
「生きていた、あなたが。なんて……なんてすばらしいんだ!」
ここからは後姿しか見えないけれど、きっと幸せそうに笑っているに違いない。
ちゃんとロミオの口調のまま、琉夏くんは幸せを抱きしめて笑っていた。
「もう二度と会えないと聞いて、悲しかったのに、――だけどここにいる!」
嬉しそうな顔で天を仰いだ琉夏くんは、このまま立ち上がって美奈ちゃんを抱えてくるくる回りそうな勢い。
「また、会うことができた!」
琉夏くんの肩越しに、一瞬泣き出しそうな顔が見える。
「る――ろ、ロミオ様!」
そしてジュリエットも、美奈ちゃんも、感極まったみたいに琉夏くんを抱きしめ返した。
「キャー!!」
「琉夏代われー!!」
「見せ付けんなー!」
客席からは、『見てるこっちが恥ずかしい!』って感じの、からかうような歓声が飛ぶ。
さっきよりずっともっと大きくなった歓声の中で、私は毒気を抜かれたように力も抜けて、頬が緩んでいくのを感じていた。
目の前でハッピーエンドに向かっているのは、劇だって、現実じゃないって、そのくらいわかってる。
だけど私たちが生きていく世界でも、幸せになる道なんて本当は見つけられないだけで、いくつでもどこにでもある気がした。
例え現実がそうじゃなくても、思うほど甘くないとしても、今だけは夢を見させてほしかった。


「ロミオ様、家に帰りましょう」

立ち上がった二人はまた見詰め合う。いつの間にか、ロマンティックなBGMがステージの上に満ちて、まるで二人だけの世界。落ち着きを取り戻した美奈ちゃんに見上げられて、琉夏くんは少し首をかしげながら問い返す。
「――家?」
「帰って、お父様と、お母様にお話しましょう。きっと、わかってもらえます」
「……ジュリエット」
「みんなに、大好きなみんなに祝福されて、そうして――」

にっこりと微笑んで、美奈ちゃんは琉夏くんの手を握った。

「幸せになろう」

そして、大喝采。ついでに冷やかしの嵐。
だけどそんなの聞こえないみたいに、二人は見つめあっていた。
このままキスまでしちゃうんじゃないかって思えそうな雰囲気をぶち壊したのは、舞台袖から小走りで出てきた四人。二人の、両親役の四人。嬉しそうな顔は演技じゃない。楽しそうなのは二人だけじゃない。

「おお!ジュリエット!生きていたとは!」
「ああ……これこそ神の祝福……!ジュリエットや、私たちを許しておくれ」
「いいや、ロミオ。私たちこそ愚かだったのだ。このように追い詰めるとは思わなんだ」
「そうですとも。死んでしまったマキューシオにもティボルトにも、本当にすまないことをしました」

妙に物分りのいい台詞は、ご都合主義って言われればそうかもしれない。だけど四人とも、ううん、演劇のメンバーは舞台袖からずっと見守ってて、美奈ちゃんが作ったハッピーエンドに賛成してるんだ。
ぐすぐすと涙ぐむ……フリをして、本当はこの状況に笑ってるに違いない、ロミオのお母さん役――石田さんが言うや否や、舞台袖から大声が飛んでくる。

「ちょっと待った!」

マキューシオ役の鈴木くんだ。今度は何事かとみんながそっちを向くのと同時に彼は現れた。
それも、脱ぎかけのブーツを慌てて履こうとしているマキューシオの格好で、頭にタオルを巻いちゃってるティボルトの格好をした琥一くんを、多分無理矢理引き連れて。当然、そんな二人の格好に客席は拍手しながら大笑い。まるでコントか何かみたいになってしまった悲劇は、もう原型をとどめていなかった。
二人とも、出番が終わって着替えようとしていたところを、取るものも取りあえず出てきたんだろう。中途半端に脱ぎかけのブーツのせいでよろけた鈴木くんが琥一くんにしがみつくと、琥一くんはつれなく突き放す。なんだか二人の息はぴったりで、また歓声が上がる。笑いながらみんな、ステージに向けて声を張り上げる。生き返ったのかよ、とか、もう何でもアリじゃねーか、とか。野次のような言葉にはちゃんと温度が宿っていて、みんなこれから何が起こるのか楽しみにしてるのがよくわかる。
突き飛ばされて床に座り込んでいた鈴木くんは、そのままの格好でマイペースにブーツのファスナーを上げている。それが終わるとすっくと立ち上がり、さらにビシッと何故か観客席を指差して、

「フフン。いつから俺たちが死んでいると錯覚していた……?」
「なん……だと……?」

今度はどっと大きな笑い声が起こった。満足そうな鈴木くんの横で、琥一くんが呆れ、そして小さく笑っている。ちなみに「なんだと」って言ったのはジュリエットのお父さん役の村上くんだ。
「ティボルト!マキューシオ!」
琉夏くんは二人のところへ駆け寄って、肩を抱きながら笑った。
本当に最後までノリノリで演技するつもりみたい。

「二人とも生きていたのか!」
「もちろんだ親友!なぜならば俺たちは――……」

琉夏くんに負けず劣らずノリノリの鈴木くんが、琥一くんの脇を肘でつついている。お前が言えよ、なんでだよ、とか、多分そういう意味の目配せをしつつ。客席からも舞台の上からも期待に満ちた視線を浴びて、結局困り果てた琥一くんがしどろもどろ気味に発した台詞は今日一番の笑いをかった。


「あ?ああ、アレだ……ふ、不死身のヒーローだから、よ」


みんなが笑った。私も笑っていた。鈴木くんも「お前それはねーわ」と呟きながら笑っていた。
さすがにこればっかりは琉夏くんも美奈ちゃんも耐え切れずに口を覆って体を震わせていたものだから、琥一くんはぶすっと黙り込んでしまう。舞台袖に引っ込まなかった分、がんばってるのかもしれないけど。
笑い声がおさまると、美奈ちゃんも嬉しそうに彼らのところへ駆け寄った。

「ティボルト、無事で何よりです。マキューシオも」

ティボルトは、琥一くんは優しく微笑んだ。本当の従兄妹、ううん、兄妹みたいに。

「あーその、なんだ…………幸せになれよ」
「――うん!」

大きな手をポンと美奈ちゃんの頭の上に載せて、琥一くんは笑った。
まるで全てをやり遂げたような満足そうな笑顔を、私が大好きな笑顔を、一体どれくらいぶりに見ただろう。
そんな感慨に浸る暇もなかった。

「おお!何もかも上手くいったのだな!」
「ロレンス様!」

どうやら舞台袖で今か今かとタイミングを窺っていたらしい、司祭役の小川くんまで飛び出してきた。ついでに他の残りのメンバーまで顔を出してきて、もう裏に残ってる人はいないんじゃないかってくらいに、ステージの上はぎゅうぎゅうになりつつある。
淡い余韻すら奪っていく、強引で慌しくて、だけど楽しい劇は、確実に終幕に近づいていった。ロレンス司祭はロミオとジュリエットの手を取ると、天に向かって掲げさせた。

「いや、めでたい!どうじゃろうご両家、ここに長らく続いた仲違いを解いた恋人たちがおる。このまま結婚式を挙げてみてはどうかね」

もちろんステージの上でも下でも異議はない。観客まで盛り上がって野太い声まで上がっている。
このまま大団円、結婚式を挙げながら劇は終わるのかと思えたそのとき、

「ちょっと待ったぁーーーー!!!」

舞台袖から飛び出してきたのは小さな影。手には台本らしき冊子、衣装はなくて制服のまま、ストップウォッチらしきものを首に下げたのは実行委員長だ。
小さな歩幅でもつれそうになりながら彼女はステージの最前列を小走りに進み、ステージ上の全員の顔を見回し、

「……な、何よ何よ!何なのよこれ!」
「あ……委員長……」
「私の、だ……台本、台本が……」

そして、いっそ誰よりも演技派なんじゃないかってくらいの勢いで天を仰ぎ、委員長はその場に崩れ落ちてしまった。
なんだか客席の私まで申し訳なくなってくる。
だって、きっと委員長だって今日のために必死で脚本を練ったり、演技指導したり、セットの確認をしたり……してたはず。それが本番の、たった五分くらいで全部変わっちゃった――言ってしまえば“ぶち壊されちゃった”わけで、そんなことされちゃったら、委員長じゃなくたってこうなっちゃうに違いない。
だけど、それでも私はハッピーエンドを見ることができてよかったと思う。委員長には、本当に悪いと思うけど。
ステージの真ん中に崩れ落ちた委員長を、照明係がふざけてスポットライトで照らし、音響はこれまたふざけて『チゴイネル・ワイゼン』をかけている。予想通りに笑いの渦に飲まれて、もう何から何まで無茶苦茶だ。
無茶苦茶だけど、まるで申し合わせたかのように全てが上手く組み合っていて。こんなハプニングだって物ともしないのは、演劇関係者たちが今までどれだけ力を合わせて頑張ってきたかってことの何よりの証拠であり、結果に思えた。
この状況を引き起こしてしまった美奈ちゃんは委員長がこんなに落胆するなんて想像もしてなかったらしく、その場にしゃがみこんで小さな背中を小さな手のひらでさすっている。
あんなに小さな手で、彼女は世界のすべてを救ってしまった。

「ご、ごめんね……」
「俺もゴメン。……ハッピーエンドになっちゃった」
「これもまぁ、一つの結果ってことで……でも委員長がいなかったら、そもそもの劇はなかったよ」
素直に謝った美奈ちゃんを見つめていた琉夏くんが飄々と続けて、その後をさらに村上くんが引き受ける。
満足そうに横でうなずいていた鈴木くんは何かひらめいたように、客席に向かって手を挙げた。
「最大の功労者に拍手ー!!」

間髪入れずの大喝采に、私も便乗した。そこかしこから大きな声援も上がる。
「サイコーだったぞー!!」
「名監督ー!」
「元気出せ委員長ーー!」
だけど委員長はまだうずくまったまま、美奈ちゃんも困ったように笑ったまま。
そのうちみんなはステージの真ん中に集まってきて、どこからかエンドロールの音楽まで聞こえてきた。ハッピーエンドにふさわしい曲の合間に、さっきまでノリノリでアドリブを言っていたみんなが委員長を励ましているのが聞こえる。

「…………うっ、うう……こんなはずじゃ……」
「イインチョ〜元気だしなって!」
「ほら、聞こえるっしょ?拍手。大人気じゃん!」
「あ、そろそろ時間だって。ほら委員長、幕引きしよーよ」
「よっしゃ、じゃあ委員長も一緒にいいよな!」
「ほら立って!カーテンコールだ!」
「うえっ!?ちょっと、ぎゃーーーーー!?」

両手を琉夏くんと鈴木くんに引っ張られて、委員長は立ち上がった。どころか、両手を高く高く上げられたものだから背の低い委員長はほとんど両足が浮いた状態でバンザイのポーズになってしまっている。
ブラボーって誰かが叫ぶ声、たくさんの口笛、拍手。それらすべてがステージの上で渦巻いて、笑顔を彩って、本当に、文字通りのハッピーエンド。
「うぇーーーい!!」
変な掛け声にあわせて、舞台の上のみんなは客席に深くお辞儀をした。こっち側はというと、盛り上がりは最高潮、スタンディングオベーションどころか椅子の上に立っている子までいる。
琉夏くんの片手は美奈ちゃんの片手と、美奈ちゃんのもう一方の手は琥一くんの片手とつながって。そうやって一列に並んだみんなの手が高く掲げられたり下に降ろされたり、それにあわせてのお辞儀が繰り返されながら、
ハッピーエンドの幕は下りた。

客席の拍手はやまない。みんな笑顔で、学園祭のメインイベントを見送っていた。
終わったら、素敵な友達に何を言ったらいいだろう。そう考えていると、緞帳が下りていくその合間に、目が合った。
本当に幸せそうに笑う美奈ちゃん、歯を見せて満面の笑みを浮かべる琉夏くん、呆れながら困ったように口の端を上げてみせる琥一くん。
そっか。そうだね。
きっとそれは言うべきことじゃないかもしれないから、私は心の中だけで呟いた。

よかった。
本当に、よかったね、みんな。

20120513