虹のワルツ

時は学園祭の三日前に遡る。
クラスメイト数人とともに学園演劇の裏方に任命されていた平健太は、その日たまたま別件の用事で校内に遅くまで残っていた。すでにとっぷりと日は暮れており、生徒の数もまばらな廊下を急ぎ足で通り抜ける。
多数派が帰る時間に帰らず、居残りをする……こういうイレギュラーな事態が苦手な彼は下駄箱から焦るように革靴を取るが、
「なんだ、これ……?」
はらりと落ちてきた紙切れを拾い上げる。ラブレターにしては色気がなさ過ぎるし、脅迫状にしてはチャチだなぁ。
と、どこか他人事のように苦笑しながら二つ折りにされたA5くらいのわら半紙を広げると、綺麗な文字が躍っていた。
文面はいたってシンプル。
それゆえに内容のインパクトは大きかった。


『平 健太 殿
我々 はばたき学園ローズクイーン選考委員会は 貴殿を今年の伝達係に任命する
例年のことではあるが 当日まで他言は無用
演劇終了後の午後4時30分 家庭科室にて発表の用紙を渡す
時間通りに来ていただきたい』


77. 意味を失くしたものたちの末路(平)





そういうわけで、俺は今家庭科室に向かっているわけだ。
あの奇妙な手紙には、そこまで驚かなかった。毎年ああいう風にして体育館の渡り廊下に発表の用紙を貼りに来る人がいるのは知っていたし、それは多分皆がそうなんだと思う。
その委員会というのは、誰がやっているのか、何人いるのか、誰も知らない。だって、いくら学園祭の裏イベントとは言え独断でローズクイーンを決めるなんてのは誰のやっかみを買うかわからないものだろうし。毎年納得しない人もいたみたいだから、来年あたりから正式にミスコンをやるのかもしれないなって、クラスメイトとも話していたことを思い出す。
とりあえず今年は例年通り、謎の組織が学校のどこかで暗躍?しているみたいだった。
その正体不明の委員会とやらが学園祭の当日に発表の用紙を貼りにきたとなっては本末転倒だ。そういうわけで、毎年何も知らされない関係者、“伝達係”だけが、表舞台に出てくる……らしい。俺は当事者でありながら、全く実感が沸かない。
だけどこういう、なんだかオペラ座の怪人みたいな手紙も学園祭の雰囲気の中ではちっとも浮いていないように思えた。

さっきまでセットを片付けていたせいで汗ばんだ額をぬぐうと、達成感みたいなものを感じた。
誰かにしゃべっていいのかわからなくて適当な理由をつけて先に出てきたけれど、本当にいい劇だったと思う。それに、舞台が終わった後も中々おもしろいものが見れた。
劇をある意味めちゃくちゃにしてしまった小波さんを、他のメンバーが取り囲んで、笑いながら『よくもやってくれたな!』って。
誰も怒ってないのは、やっぱりそれが小波さんだからだと思う。(あ、委員長は怒ってたっていうより嘆いてたけど)
一年と二年のときに同じクラスだったけど、あの頃から彼女は明るくて皆に慕われていた。ローズクイーンの最有力候補って言われるようになった三年になっても、クラスは違うけど小波さんは根っこの部分が変わっていないように思える。
たまに昇降口や廊下で会ってもニコニコ笑いながら挨拶してくれる。まぁそれは、俺にだけじゃなく、皆に平等に、なんだけど。
でもそういうところが彼女らしさなんだろうな、とも思う。

家庭科室にたどり着いても、そこには誰もいなかった。
妙に綺麗に片付けられていて、つい昨日まで手芸部と演劇の衣装係が作業スペースを争っていた形跡すら残っていない。そういえば、花椿さんの集中ぶりはすごかったなぁ。もう随分昔のことみたいに思えてくる。
学園祭が終わってしまう寂しさは、家庭科室に差し込む橙色の西日のせいで余計に大きくなっていった。
ああ、感傷に浸っている場合じゃなかった。
咳払いをしながら背筋を伸ばして家庭科室の中を見まわすと、入り口から一番遠いテーブルの上に大きな赤い箱があるのがわかった。
幅広のリボンが結ばれている。そして箱の間には大きな封筒が挟まれていて、乗せられた一輪のバラの花。
多分封筒の中身は貼り出す発表用紙で、箱の中身は毎年女王に贈られているガウンとティアラなんだろう。バラの花は――女王に渡せばいい、のかな。

俺はそれらを両手で抱えると、家庭科室を後にした。
ふさがった手では施錠もできないけど、来たときから開いていたし、中に委員会のやらの連中が残っているのかもしれない。だから、放っておいた。
大体、俺が偶然一人で帰ろうとしていたあの日に“手紙”を入れてたのだって、監視されてるみたいで少し気味悪かったし。

これは誰の元にいくんだろうか。
急ぎ足で体育館へ向かいながら考える。
二年の頃は、俺たちの代は候補者が多いんじゃないかって話してた。それこそ、両手の指に収まるかわからないくらいの候補者のことを。
誰某は一番の美人、あの子は学年主席、なんとかさんはテニス部のエース、その他たくさん。
三年の頭にはそれも半分くらいまでに減っていたし、夏の頃には最有力候補二人が自動的に決まっていた。

小波さんと、瑞野さん。

男子の間では賭けを始めるヤツだっていた。もっとも、女子にばれたら恐ろしいことになりそうだと考えてるのは俺だけじゃないみたいで、参加してる男子は少なかったけど。それでも票はどうやら真っ二つに分かれていい勝負になっているらしかった。
そりゃ、そうだろうな。
二人ともローズクイーンになる素質っていうか、そういうのがあると思う。だけど、毎年女王は一人だけ。しかもどっちが選ばれてもおかしくないくらい。
一番の美人ってだけじゃだめだし、学年主席がなれるわけでもない。全国大会優勝とか、雑誌モデルに選ばれるとか、そういう人でも、なれるわけじゃない。
要するに、一人の中で全部の要素の最大公約数が一番高い人が選ばれるんだろうなあって思う。
二人とも主席じゃなければモデルでもないし全国大会に出たわけでもない。それぞれ一つずつの能力は、多分他の人のほうが優れているのは、多分誰が見ても明らかだ。ああいや、それでも二人とも、なんでも人並み以上にできるすごい人だと思うけど。
なんとなくそんなことを考えていると、一体女王なんて決めてどうなるっていうんだろう、って思えてきた。自分自身が大した人間じゃないからか、まるで僻みみたいな考えだけど。っていうか俺は男だけど。
なんでもできる人ってすごいと思うけど、大変だろうなと思う。できることがたくさんあると、何を選んだらいいのか、わからなくなりそうだ。そんな風にも思えた。
できることが少ない俺みたいなタイプと違って、できる人にはできる人の悩みがあるのかもしれない。
全く想像もつかないけど。
一つだけ、何か一つだけ大切にできるものがあるほうが、ある意味では幸せなのかもしれないのかな。
なんて考えるのは傲岸不遜だというのはわかってる。それにきっと、女王と呼ばれるような人なら自分がやりたいことはちゃんと決めてるだろうし、それに向かって邁進することもできるに違いない。
そういう人は、きっと誰から見てもカッコいい。だからローズクイーンには“憧れの”って枕詞まで付くのかもしれないな。

だんだんと暗くなっていく廊下に、隙間風が吹き込んだ。
日が落ちるのが早くなって、風も冷たくなって、もうすぐ冬が来る。毎年、学園祭が終わったら俺はセーターを出すことにしている。
高校最後の学園祭か、と感慨深い気持ちになりながら大きな箱を抱えなおした。

片付けを始めている生徒たちを横目に通り過ぎる間も、チラチラと視線は感じていた。バラの花が乗った大きな箱なんて持っていたら、そりゃあ、ばれるだろう。
だけど俺には、どちらが女王になるのかなんてわからない。
だってただの、伝達係なんだから。


***


体育館前の渡り廊下はすでに人の波で埋まっていた。
その中に、小波さんの姿が見える。彼女は桜井琉夏や花椿さんたちといっしょにいた。瑞野さんは――綺麗な新体操部の子たちと一緒みたいだ。いつも思うけど、綺麗な人が新体操部に入るのか、それとも新体操部の人たちが綺麗になっていくのか、どっちなんだろう。どっちでも、俺には関係ないけど。
他にそろっているのは演劇のメンバーとか、クラスメイトとか、三年生がほとんど。例年ながらすごい人ごみだ。
それを掻き分けるように掲示板の前へ進むと、俺が持ってる荷物に、そしてそれがどんな意味なのか気がついたクラスメイトたちが道を開けてくれた。バシバシと肩やら背中やらを叩きながら、興奮気味の声までかけてくれる。非常に、ありがたいような迷惑なような気持ちになる。

「うおー!今年タイラーが発表すんのかよ!」
「誰?見た?なんて書いてあった?」
「まだ俺だって見てないよ」
一人だけで見たってしょうがない。こういうのは、やっぱり大勢で楽しんだほうがいいに決まってる。
笑いながら、別に俺が選ばれるわけでもなければ選ぶわけでもないのに緊張していた。
大きな封筒の中身は、ローズピンクって言うんだろうか、鮮やかな色の厚手の紙が入っている。
封を開けただけでは、そのつやつやとした紙に誰の名前が書かれているのか見えない。
意識的に、真ん中に書かれた名前を見ないようにして、掲示板にそれを画鋲で留めた。
一瞬、あたりは静かになって、それから、わっと大きな歓声が上がる。
見てしまうのがもったいないような気がしてゆっくりと顔を上げると、そこには、当たり前だけど一人の女の子の名前だけが載っていた。

ああ、やっぱり。
その結果は胎の中にすっと落ちてきた。なんとなく、彼女だろうなと思っていた。
今年のローズクイーンは周りの人たちから次々と、もみくちゃにされている。されながら、驚いていた顔がだんだん明るくなっていく。
その顔を見ながら、なんとなく俺はこう思った。
ただの高嶺の花では、きっと女王にはなれないんだろう。女王だからと近づきにくくなるような人では、多分ダメなんだろう。
俺の隣では賭けのメンバーが泣いたり笑ったりの様相を見せていた。
「タイラ〜〜!」
「なんだよ、俺が決めたわけじゃないんだから……」
同情を求められても俺には何も言えないから適当にその場を濁して、折りたたもうとした封筒の中にかすかな手ごたえ、というか、違和感を感じる。
まだ何かが入っていた。
取り出したそれに目を通して、なかなかどうして、謎の委員会というのはどこまでも見ているものなんだなと感心、そしてちょっとだけビビってしまった。
みんなから人気じゃなきゃいけない。反面、たくさんの人から慕われる代償に、最も近くにいて欲しい存在を失うことも許されないのだろう。
さすがに女王と言うだけあって、要求される条件が厳しいなあと苦笑する。

誰も気づいていないかもしれない。けれど、もしそこに彼がいたのなら彼女だって――いや、俺にはもちろん、本当のところはまったく、わからないけど。
だけど……。
彼女が女王になれなかった理由の、多分一番大きなそれは、そこにいるべき彼の不在のせいだろうと思った。

20120520