虹のワルツ

84. 冷たい風に逆らって(美奈子)


その年の三年生の中で、一番最初に大学合格を決めてしまったのは、私だった。
推薦入試の結果を言い渡された職員室の中で先生たちに拍手されて、その後、どこをどう歩いたのかもわからないままにたどり着いた教室の中でクラスメイトにお祝いしてもらえて、私は本当に幸せな人間なんだと思う。
「すごいね、おめでとう!」 とか、「さすがローズクイーン」 とか。
みんな心から喜んでくれてるのに、それこそ自分の勉強の時間を割いてまで――こう思ってしまうのも、私が引け目を感じているせいかもしれないけれど――祝ってくれて。
ただただお礼を言うばかりでそれ以外に何もできなかった。
重荷から開放された体は、持て余すほどに不自由だった。


***


「え?アルバム委員……ですか?」
「俺と、小波で?」

私と不二山くんが呼び出された進路指導室の中は、古い石油ストーブでかすかに温まっている。その上のやかんが小さく湯気をあげているのを見ていると、小さい頃におばあちゃんの家に行ったことを思い出した。

「もちろん、お前たち二人だけじゃないぞー。来週くらいから私立の合格者も出てくるだろうから、まぁ、10人弱くらいになるだろうな」

大迫先生は、やかんのお湯を使ってお茶を入れてくれた。「内緒だからなー」と言いながら、小さなお菓子の包みまで。
不二山くんは大きな手で湯のみを掴んだまま、大迫先生の話に面食らったような顔をしている。
多分、私も。

「先生、アルバム委員って何やるんすか」
「ああ!言い忘れてたなぁ、悪い悪い!」

悪びれた様子もない大迫先生は笑いながら湯のみをテーブルの上に置いて、クリアファイルの中から一枚の紙を取り出した。

「なーに簡単だ、写真屋さんが持ってきた写真の中から、アルバムに載せるのを選んでもらうだけだ。ページの構成とかはこの紙に書いてある!」

A4のプリントにはページ数と、どこにどの場面を載せるかが細かく書いてある。
1〜2ページ、教職員写真。3ページからクラス集合写真。このあたりは、私たちは考えなくていいところみたいだ。
真ん中あたりから、部活動ごとの写真で、その後は体育祭、学園祭、クラスマッチ、他。
不二山くんも私も、興味津々を隠さずにそのプリントを覗き込む。

「へー。写真って、修学旅行とかのっすか?」
「そうだ。他にも体育祭とか文化祭とか、授業中の写真もあるらしいぞ」
「え、授業中の!?」
「いつの間にか撮られてたんかな……俺知らなかった」
「授業に集中してたんだろうなぁ、と言いたいところだが、不二山は早弁して気づかなかっただけかもしれんなぁ」
「先生気づいてたんすか」
「えっ!? 気づかれてないって思ってたの!?」

大迫先生は呆れた顔をしているから、気づいてたに違いない。
というか、お弁当のにおいでクラスのほとんどが知ってたのに、先生が気づいてないわけないのに。不二山くんは本当に、よく言えば素直なんだと思う。今だって意外そうな顔をしてるものだから、私はついおもしろがってからかってしまう。

「早弁、写ってたりして」
「あっても載せねーからいいよ」
「あー!ズルイんだー!」
「まぁ、早弁はともかく、全生徒が満遍なく載るように、頼んだぞ!」

大迫先生は腕時計を気にしながら喝を入れてくれる。
持て余していたこれからの高校生活の中に最後の予定が入ることは、何のためらいもなく嬉しく思えた。

「はい」
「押忍」


***


「なんかさー、変な仕事押し付けられたんかなー俺たち」

進路指導室から教室へ戻る道すがら、不二山くんはそんなことを呟いていた。

「そうかなぁ?楽しそうだと思うけど」
「んー……まぁ自分の知らないところで変な写真載せられるよりマシか」
「早弁とかね」
「しつけーよ」

呆れた目をした不二山くんと一緒に笑おうとしたけれど、やっぱり声を潜めてしまった。
どこもかしこも勉強中の生徒ばっかりで、休み時間中もみんなノートや参考書を読んでいる。
ごく一部の、専門学校に進学する子たちは比較的ゆったりした雰囲気だけど、それでも学校全体の空気は今までで一番、ピリピリしていた。
なんとなく居心地が悪くなって、私たちは黙り込んでしまう。

「……うん。俺、ちゃんとやる」

不二山くんは、笑わずにそう言った。
どうしてそうなるのかわからなくて、私が聞き返すと、

「やれるの、俺たちだけだもんな。これから人数増えると思うけど、多分大迫先生、俺たちにまとめてほしかったから呼んだんだろ?」
「あ……そういうことか」

そういうことにすぐには気がつけなくて、私はちょっとくやしかった。
合格が決まって浮ついてしまってる。不二山くんは、ちゃんと地に足がついてるみたいで、ちゃんと色々考えてて、やっぱり柔道部を作ったくらいなんだから本当に、すごい人だと思う。

「お前もがんばれよ」

そう言われるのがまるで気持ちを見透かされているようで、恥ずかしくて私は俯いた。

「……うん、がんばる」

不二山くんが言うことにはきっと深い意味とか、悪意なんてものはちっともないのに、それがわかっているのにどうしようもなくて、そんなことを考えてしまう自分も含めて自分が嫌になってくる。
こんなんで大学生らしくやれるのかなとか、大人になるにはあとどれくらい時間がかかるのかなとか。
立ち止まってしまったままの私たちの頭上を、呼び出しのチャイムが流れていく。

『桜井琉夏、至急進路指導室に来なさい』

氷室先生の声だった。相変わらず感情が読み取れない声で、怒ってるのかそうでないのかちっともわからない。わからないけど、これまで何度も廊下や中庭で呼び止められてはお説教を受けていた琉夏くんとのやり取りを思い出す限り、いいことで呼び出されるとは思えない。
また琉夏くん、何かやらかしたのかなと思っていると、目の前の教室から琉夏くんが出てくる。

「よ!」
「おう。お前またなんかやったのか?」

琉夏くんは私たちを見ると、片手を挙げておどけて挨拶してみせた。不二山くんも少し笑って、同じように片手を挙げる。どうやら不二山くんも私と同じようなことを考えていたらしくて、呆れたような面白がっているような顔で琉夏くんに尋ねた。
当の琉夏くんはちょっとむっとして、でもやわらかく笑う。
なんだか、いつもと感じが違うみたいだった。

「ヒーローに向かって失礼な……」
「じゃあ何で呼び出されてんだ?」
「まぁ……野暮用?」
「俺に聞くなよ」
「大したことじゃないよ。あ、行かないとヒムロッチに怒られる。じゃな!」
「おー」

琉夏くんは小走りで、私たちが来たほうに、進路指導室のほうに向かっていった。

「なぁ、なんか琉夏ってさ、変わった?」

不二山くんの口ぶりは、尋ねるというよりも確認するような、同意を求めるような感じだった。
実際、私も――私だけじゃなくみんなが少し前から言っていたことだけど――そう思っていたから、「そうだね」 とだけ、返事をする。

「だよなー。なんか、目標に向かってる目、してるもん」
「目標……?」
「うん。なんか俺にはそう見える」

不二山くんがそう言うのなら、それこそ目標に向かって毎日邁進し続けている不二山くんがそう思うのなら、そうなんだろう。似ている人同士にはわかることもあるのかもしれない。
でも、琉夏くんの目標ってなんだろう。
廊下の角を曲がって見えなくなった琉夏くんの背中には、もう呼びかけることも、問うこともできない。

「今ならさぁ、手合わせ引き受けてくんねーかなぁ」
「手合わせ?」

不二山くんは握り締めた片手をもう片方の手で受け止めるようにして、“悪い笑顔”になっている。

「琉夏も琥一も空手やってたんだろ? やっぱ強えーヤツとは一回やりあってみてぇって思うから何べんも声かけてんだよ。そんであわよくば部に引き入れようって思ってた。ずっと」

結局駄目だったけどなー。と、不二山くんは両手を緩めた。
そういうことが三人の間にあったんだ、と、私はちょっと意外に思う。
二人が柔道部だったら――
そんな『もしも』 を想像すると、なんだか笑顔になってしまう。

「実現してたら、きっと新名くんが大変だっただろうね」
「そうかもな。でもアイツ、琥一になついてるし、琥一って結構面倒見いいしな」
「あ、わかる。いい先輩になってたかも」
「やっぱちゃんと勧誘して入れときゃよかったのかもなぁ」

もしもあの時ああしていたら――
残り少ない高校生活を思うと、どうしてもそんな微かな後悔が胸に生まれてしまう。
もっとこんなことをしておけばよかった、とか、あんなこともやってみたかった、とか。
目に映る教室の風景は、そんな後悔をしないように頑張っている同級生でいっぱいで、やっぱり取り残されているような思いを抱いたまま、私は窓の外に顔を背けた。
今日は、曇り。

20121004