虹のワルツ

85. 埋まった溝埋まらぬ穴(琉夏)


俺が行くまで進路指導室にいたあの人は、誰だったんだろう。



「すみません、お昼間に来てしまって」

内巻きにされたセミロングの髪は、甘いはちみつみたいな色に染まっている。カーディガンみたいなデザインの丸襟のジャケットに、膝上のフレアスカート。生徒じゃないことはわかる。それから先生じゃないこともわかる。誰かの保護者、って年にも見えない。第一、俺たちと5つも変わらないくらいに見える。
その小柄な背がお辞儀をしているのは、理事長とヒムロッチだった。
二人ともいつもどおり、つまり、理事長はニコニコしてるし、ヒムロッチは無表情に黙ったままだった。
呼び出された身としてはちょっとムッとしないでもないけど、なんとなく声をかけちゃいけない感じがした。誰かの大切な何かを見ているこんな場面は、苦手だった。昔は。

「構わないよ。こんなにおめでたいニュースなのだから、私たちもできる限りのことをさせてもらうよ」
「わぁ……!本当に、ありがとうございます!」
「氷室先生も二人の担任だったのだから、嬉しいでしょう」
「先生って全然顔に出ないですけどねー」
「余計なお世話だ。……まぁ、おめでとう」

少し離れたところでも声は届く。この人、ヒムロッチの教え子なんだ。それがわかるのと同時にピンとくる。
二人とも、って台詞と、おめでとうって言葉。
これって『結婚の報告』ってやつなんじゃないだろうか。

「ふふ、ありがとうございます!」
「葉月君にもよろしく伝えておいてくれるかな?」
「ええ、もちろんです!……というかすみません本当に、私一人で。……今度は必ずつれてきますので!」
「楽しみにしているよ」
「気をつけて帰りなさい」
「もう、先生ったら。私も子供じゃありませんよ」

その人はそう言って笑いながら、幸せそうに笑いながら、去っていった。


***


「ま、オマエはやればできるヤツだと思ってたぜ。俺は」

期末試験が終わった放課後――と言っても、まだ時間は4時にもなっていない。
コウと美奈子と、夏碕ちゃんの四人。俺たちはしばらくぶりの和やかな気持ちで、喫茶店のテーブルに座っていた。

「どうして琥一くんが偉そうなの……」

戸惑いながら、美奈子は笑っている。コウはアイスコーヒーを口に運びながら鼻を鳴らす。その向かいでは、夏碕ちゃんがニコニコしている。
こうして四人で寄り道するのも久しぶりで、それだけは純粋に嬉しい。

「美奈子が一番かぁ、すごいや」

合格したって聞いたとき、心から嬉しかった。
もっとさみしくなるのかもしれないと思っていたから、自分の心が少し不思議だった。ヒムロッチのおかげ、放課後の補修のおかげ、なのかもしれない。

「え、でもほら、まだ合格って言われただけだし」
「決まったようなもんだろ」
「でも、宿題とかもらったし」
「あ、休み時間にやってるやつ?」
「うん。結構量が多くて、」
「え?大学からそんなん出るの?」
「そうなの。そう思ったらなんだか推薦って損かも……あ、そんなこと言っちゃ怒られるよね、ごめん!」

美奈子は顔の前で小さな両手を振って弁明している。
かわいいなぁ。そんなこと言っても俺たちの誰一人だって怒ったりしないのに。

三人はそのまま、とりとめのない話を続けている。その傍らで、俺はいろんなことを考える。
美奈子が合格して、春から大学生になること。先生になるためにがんばること。
コウと親父が話してたこと。これから先のこと。
夏碕ちゃんにだけ話したことを、美奈子にも言わなきゃいけないってこと。
俺のこと。
放課後の補習のこと、冷たい風が吹く土地の思い出のこと、俺の将来のこと。
俺が大切にしたいもの、大切にしたい人、俺がこうなりたいと思うもののこと。

「でも、合格決まったらほっとしたでしょ?」
「そりゃ、……うん。えへへ」
「しまりのねぇ顔だなオイ」
「もう!失礼なこと言わないでよ!」

俺は多分、美奈子とずっと一緒にいたい。
子供じみた願望で、未来が絶対じゃないことなんてよくわかっている。
でも今この一瞬の自分の願いを否定することはもうしない。
ただ、そうするために何をしたらいいのか、それだけがずっとわからないまま。

「いいじゃない、おめでたいことなんだから」

ただ一緒になるだけなら、子供のままでもできるのかもしれない。
だけど多分、誰にも祝福してもらえない。そんなのは俺も望んでいない。
それは幸せなんかじゃない。

「まぁ……そうだな」
「見直した?」
「だから言っただろ、オマエはできるヤツだって」
「わかってるなら、よし」
「オイ、コイツなんか調子乗ってねぇか?」

俺は多分、大人になったらきっと誰からも祝福される幸せを手に入れることができるって思い込んでいる。
俺が祝福されたいだけじゃなく、美奈子が祝福されて幸せそうな顔を見ていたい。そのためには俺だって頑張らなきゃいけないってことはわかってて、だから努力することを選んで、俺だって、眩しい光の中でキラキラした大事なものを掴みたいと思っていて――

「誰だってこういうときは嬉しいものでしょ?」
「へーへー。ま、合格したけど卒業できなかった、なんてオチにならねぇようにな」
「えぇ……琥一くんが言う?」
「んだと?」
「やんのかこら!」
「はいはい、やめやめ!」

手に入れれば、その幸せがずっと続くものだと思っている。

「ちゃんと卒業できるよー。もー……」
「今みてぇに噛み付いてたらそうもいかねぇかもな」
「美奈ちゃんがそんなことするわけないでしょ……」
「ねー! まぁ、でも私が卒業できないとしたら……原因は事故とか病気とか?」

持っていた幸せは、続かなかったくせに。

「……琉夏くん?」

気づいたら俺の手のひらは水浸しになっていた。
知らないうちに水が入ったコップを倒してしまったんだろう。

「馬鹿オマエ、何してんだよ」

コウが倒れたグラスを元に戻しても、水はこぼれたままだ。
それを夏碕ちゃんがおしぼりでふき取っても、美奈子が俺の手をペーパーナフキンで拭いてくれても、水は元の器には戻らない。当たり前だ。
どうやったって、失ったものは戻ってこない。

「どうしたの?」

何も答えられなかった。
美奈子が不安そうな目をしている。どうして俺は壊すことしかできないんだろう。
あの人の目を思い出す。結婚する人は、幸せを掴む人は、あんなふうに笑う。周りも笑っている。理事長にもヒムロッチにも、幸せが伝播して、ああ、幸せってこうやって広がっていくものなのかもしれないって思えた。多分そうなんだろうとも思う。
それと同じで、嫌な気分も伝わっていくような気がした。
美奈子に、『俺がいるとコウは自由になれない』 って、言ったことがある。美奈子は本気ではとりあってくれなかったけど、俺は大真面目にそう思っている。俺は確実に、少なくともコウの可能性は奪ってしまったんだと思っている。自分の、不幸せのせいで。
そうして俺の抱えているものは今この場に広がって、テーブルの下まで伝わって、幸せな空気を壊してしまった。

「――俺、帰る」
「おいルカ、」
「……バイトだよ」

嘘じゃない。だけどまだ時間はある。
重い足を引きずって出てきた外は、寒い。

大体こんなことをぐじぐじ悩んでる時点で、俺って根性なしなんだと思う。
ばっさり吹っ切って前向きに生きていきたいし、そうすることがきっと一番いいことなんだっていうのもわかっている。
だけどさ、世界で一番好きだった両親が死んでしまったことをばっさり吹っ切ってしまうって、それは正しいんだろうか。
忘れてしまってもいいんだろうか。忘れることなんか、できるんだろうか。

多分、俺は甘えたい。世界中が俺の悲しさを知って、甘やかしてくれればいいのにと恥ずかしげもなく考えることだってある。
だけどそれが間違っていることを知っているから、甘えることも前に進むこともできない。
ずっと前から。
きっと、子供の頃から。

20121008