虹のワルツ

86. 吐き出せも捨ても出来ない言葉(琥一)

「オマエ、知ってんだろ」

まだ5時をすぎたばかりというのに街はすでに暗い影に包まれ始めている。気温は一気に下がって、隣を歩く夏碕はマフラーを鼻の下まで引っ張っていた。
その顔が、まるで何かを咎められて怯えたように、ゆっくりと俺のほうを向く。そんなつもりで言ったわけじゃない。何と応えたらいいのかわからないままのような目つきに、俺はためらいながら口を開いた。できるだけ、穏やかな声音を心がけながら。

「ルカのことだ」

小波は、先に帰ってしまった。ルカが店を飛び出したのを追いかけて。
走り出した背中を見送るその直前まで夏碕は、『私、何かいけないこと言ったのかな』 と、瞼を震わせた小波を励ましていた。ああいう顔は、訳知り顔というんだろうか。わからないけれど、動揺している小波にかける言葉は力強く、そして違和感があった。

「知ってる。本人から聞いたの」

歩道のブロックに視線を落としながら、夏碕は呟いた。
そうか、としか言えず、俺もまた同じように視線を落とす。いくつかのしょうもない考えが浮かんでは消えて、ただ一つだけ、どうしてルカは小波じゃなく夏碕に話したのだろうかということだけが気がかりとして残った。
純粋に、ルカの気持ちは小波の方に向いているのに何故、という思いと、知らないところで二人がそんな話をしている事実への寂しさに似た焦燥感があった。一瞬遅れてそれは嫉妬なんだろうかと思い当たって、居心地の悪さに眉を寄せる。そういうんじゃ、ねぇよ。
これは、いいことなんだ。今までこのことを知っているのは多分俺だけだったのに、なんて、秘密の共有を裏切られたとはちっとも思っていなくて、むしろ俺は少しだけ安心していた。
コイツなら、って、きっとルカも信頼して打ち明けたんだろう。そういう人間は少ないよりも多いほうがいいに決まっている。きっと夏碕に話せたのなら、小波にだってそう遠くないうちに話せるんだろう。
少しずつでいい。一歩ずつでいいから、ルカが日の当たる場所へ歩んでいけることを、ずっと望んでいたのだから。

「誰のせいでも、ないのにね」

返事もなければ首も振らず、夏碕は俯いて鼻のあたりに手の甲を当てていた。身長差のせいで表情が見えない。
丁度バス停の照明の下で立ち止まってしまった俺たちの脇に、バスが停車して、また走り出す。

「……泣いてんのか?」
「ううん、だいじょぶ」

多分どれだけ成長したって、こういう場面でどうしたらいいのかなんて、わからないままなんだろう。
やりようもわからないまま身を屈めて、少しだけ近づいた目元を覗き込む。
言ったとおり、泣いてなんかいなかった。バス停の頼りない照明の下で、夏碕はなんとか笑ってみせた。

「琉夏くん、きっと大丈夫よね」

そうだな。オマエみたいなやつが、隣じゃなくても近くにいてくれれば、それだけでルカは救われるんだろう。
きっと近い未来には誰よりもアイツを心配しているヤツが、誰よりもアイツの傍にいてくれるんだろう。
俺にはきっとできなかったことだ。
俺はいつだって傷つけてばかりで、その場しのぎしかできなかったから。
通り過ぎる快速のバスが風を巻き上げて、俺たちの頬を弄った。夏碕は髪を押さえながら、同意を求めるように微笑んだ。
それが俺に向けられていても、そうじゃないことはわかっている。今話していたのはルカのことだ。
なのに笑いかけられた瞬間にそれが自分のためにあるような気がして、照れくさいような、どきまぎするような、慣れない感情がこみ上げて、思わず目をそらしてしまう。馬鹿みてぇだなと自分に失望して見つめていた、その視線の先に認めた姿が俺を一気に現実に引き戻す。
今この一瞬でさえ、積み重ねてきた過去が俺を離さない。
わかっていた、避けようのない事実はいつまでも俺を追いかけてくる。

「――ちょっと来い!」
「え? あっ!?」

不幸中の幸いでタイミングよく滑り込んできたバスに、夏碕の手を引いたまま乗り込む。何の準備もしていなかった俺たちは整理券をもぎ取って、ドア近くの席に夏碕を押し込んだ。これで、とりあえずはいい。
……ああ、また『その場しのぎ』の『とりあえず』しかできないのか。
いっそ絶望すら感じている俺を乗せたバスは緩慢な動作でドアを閉じ、ゆっくりと走り出した。
手すりにつかまったまま、俺は外から目を離せない。ちょうどすれ違うように行き違った二つの影は、やっぱり見たくもないアイツらだった。

「ねぇ、どうしたの?バスなんか乗って、どこか行くの?」

ほっと息をついた俺に、夏碕はようやく話しかけた。ずっとタイミングを見計らってたようだった。
なんでもないと口ごもる俺の視線の先を辿ってみても、そこには誰もいない。

「知り合いでもいたの?」
「まぁ……そんなとこだ。気にすんなよ、大したことじゃねえ」
「そう……?」

落ち着きを取り戻すとこんなことを考える。どうして俺はこうやって逃げてしまったんだろうか。
信号停止と同時にアイドリングを切ったバスの中は静かで、まるで自分が責められているように感じた。

あの二人に、余多門の二人に、絡まれるのが面倒。それは、ある。けど今まではこんな風に隠れたりしなかった。面倒でも適当にあしらって、背中を向けることなんてなかった。そうしたら、まるで負けを認めるような気がして。
夏碕がいるから。多分これも真実だ。コイツを巻き込んじゃいけないっていうのと、みっともないところを見せたくないっていう――
ああ、そうだ。多分俺は、喧嘩とかそういうことがみっともないことだっていうのに気がついているからかもしれない。気がついた。そうじゃないのかもしれない。そう知っていたことを、思い出しただけなのかもしれない。
と同時に、なんでもっと早くそう思えなかったのかと自己嫌悪に陥る。もっと早くそう思えていたら、ルカにだってもっと別の可能性があったに違いないのに。
俺は本当に、大馬鹿野郎だ。

『次は公園通り西、公園通り西です。お降りの方はお知らせください――……』

ノイズ交じりのアナウンスにはっと顔を上げる。暗闇に染まった街は行過ぎて、いつの間にか随分なところまで来てしまっていた。
夏碕は、「一体どこまで行くつもりなのか」 と怪訝そうな色を浮かべた目で俺を見上げていた。


***


「悪ぃ。今度、返すからよ……」
「いいよ、そんなの」

苦笑する夏碕は、別に俺のことを笑っているわけでもないだろうに。なのに居心地が悪いのは俺のしょうもない自尊心のせいかもしれない。
財布の中に細かいのがなくて、それも両替できないデカイので、結局夏碕に支払わせてしまった。
予定外とは言ったって乗せたのは俺だ。その事実が、どうにも気分が悪い。

「えっと、これからどうするの?」

そんなこと、考えているわけがなかった。とりあえずあの場から逃げ出せればよかったんだ。後は夏碕を家まで送るだけでいい。
とは、言えない。我ながらやっかいな性格だ。
どっかの店に入ろうにも、さっきまで四人で喫茶店にいたのだから言い出しづらい。
多分情けない顔をしたまま黙り込んでいる俺を、夏碕はじっと見ている。

「あっ、それじゃあちょっと寄り道してもいい?」

多分、見かねて助け舟を出してくれたんだろう。そう思ってしまうくらいには、自分が情けない。


***


「いらっしゃいませー……アレ?」
「あ、カレン。今日も入ってたんだ?」

今日はとことんツイていない日なのかもしれない。入った店は花椿がバイトしている店だった。店自体に見覚えはある。二年前にルカと小波に引きずられるようにしてハンカチを買った店だ。そういえば、あのハンカチは使われているんだろうか。
ちらっと夏碕の顔を窺うと、俺の様子なんか知らぬ風に花椿と盛り上がっている。こんなところに連れてきやがって、とは言えない。どうしたって、俺は引け目を感じざるをえないのだから。
俺は花椿が苦手だ。苦手だからさっさと話を切り上げようとしてつい、喧嘩腰になる。大体の女はそれでどっか行くのに、花椿は一々噛み付いてくる。だから苦手だ。きっと夏碕は知る由もないだろうし、知らなくていいことだ。

「なになにー?デート?」
「ええと……あ、それより探してるものがあるんだけど」
「なーんだ、買い物?なに?」
「前にもらったアロマディフューザーのオイルがなくなったから、」
「ああ、それならこっち!」

女二人はわけのわからん単語を喚きながらどこぞかに歩いていった。まぁ、切り抜けることができたのはいい。
それにしたってこんな、女子供向けの店の中に俺みたいなのが突っ立ってるのはどうにもおかしいだろう。見るものもない、欲しいと思うものだってない。現に今俺の眼下にあるのは華奢なピアスやらピンクのポーチやら、これまでもこれからも縁のなさそうなものだ。
強いて言うならこういう、ペアになっているネックレスとか指輪とか――
……何考えてんだよ俺は。
馬鹿馬鹿しいにもほどがあってため息がこぼれる。別に俺たちはそういうんじゃねえ。
アレがかわいいコレが綺麗と騒ぐ見知らぬ女たちに混じって、一瞬男の声が聞こえた。なんとなくそちらに視線を移して、またため息をついた。

「あー!琥一さんちょりーっす!」

本当になんだって知り合いに会うのか。
新名は用もないだろうに俺の近くまでやってくる。

「なんでオマエまでここにいるんだ」
「ヒデェ!……ってーかめずらしー。なんで琥一さんここにいんスか?」
「……アイツの付き合いだ」
「あ、夏碕さんかぁ。なーる」

事の発端は自分にあるくせに、俺は自分がこんなところにいる気恥ずかしさのせいで夏碕に責任転嫁してしまう。が、新名は納得したような口ぶりだった。

「オマエこそなんでいんだよ、一人なのか?」
「オレ?アロマキャンドル買いに来たんスよ。やっぱシモンが一番そろってるし」
「なるほどな」

何が“なるほど”なのか自分でも不明瞭なまま、したり顔でうなずいていると新名はあれやこれやと話し出す。
アロマなんとかは寝るときや勉強するときにいいだの、何とかウッドはアレで、ベルガ何とかがああだこうだだの、要するに俺には何の興味関心も呼び起こさない謎の単語の羅列だった。

「あ、てか夏碕さんもアロマオイル買ってんだ。オレちょっとお話してきてもいいスか?」
「いいんじゃねぇか?……あ? なんで俺に聞くんだよ」
「なんでって……まぁ、いいか。じゃ!  夏碕さーん!」

やっぱりわけがわからねぇ。わかったのは新名はこういう店に一人で入れるってことと、アロマ何とかは集中力を高めるってことくらいだった。集中力。ああ、そういうわけで受験生の夏碕はそんなもの買いに来たのかと考えていると、

「いーコト教えてあげよっかー?」
「うおっ!?」

いつの間にか花椿が横に来ていた。チェシャ猫のように目を細めてニヤついている顔は、俺でなくても気分が良いものじゃない。

「ンだよ脅かしやがって……」
「そんなにじっくり眺めてたわけか、んなるほど!」
「眺めるって別に……――」

ああ、そう誤解されても仕方ないのかもしれない。俺が新名と話していたのはアクセサリーのコーナーの前で、ペアリングが並んでいるような台の、真正面で。だから新名はあんなこと聞いたのかと珍しくピンときてしまう。

「別に、眺めてたわけじゃ……」
「またまたー!照れなくてもいーじゃん!」
「痛ぇ!叩くな!」
「で?アレ?クリスマス近いし?」
「いや、だから、」
「これなんかどーお?ハートモチーフは甘すぎるかなぁ?」
「人の話聞け、」
「んーでもこっちはねー流行ってるけどみんなつけてるかもねー。そういうの嫌でしょ?」
「あぁ?……まぁ、そうだな」
「だよねー。コーイチ君そういうとこあるもんねー」

どうやら花椿は俺の話を聞く気がないらしい。しょうがない。俺は適当にあしらって夏碕を待つことにした。

「いいだろ別に」
「悪いって言ってないじゃんか、もー……あ、これどう?シンプルだけど逆にいいでしょ?」
「へぇ……こんなのもあんのかよ」
「これね、ここに乗せる石選べるの。誕生石でもいいし、宝石言葉から選んでもいいかもね」
「宝石言葉ぁ?ンなもんあんのかよ」
「そ。花言葉みたいにね!……まぁ、本とか人によって言ってることは違ってくるけどさ」

そんなもん信用できるのかよ。と言いそうになって、そもそも花言葉だとか宝石言葉だとか、そんなもんは花屋と宝石屋の陰謀に過ぎないだろうにと思いつく。信用するしないって問題じゃない。
そのくせ、花椿に差し出された『誕生石一覧』 のカードを受け取ってしまう。すると、

「何してるの?」

いつの間にか会計まで済ませていたらしい夏碕が横に立っていた。
声をかけられて驚いたのは、今度は俺だけじゃなかった。花椿も慌てて取り繕った顔をする。
その横で、反射的に俺はカードをポケットにねじ込んだ。

「な、なんでもないよー! で、どれにしたの?」
「え?これ?レモングラスと、それからジャスミンにしてみたの」
「オレのおススメ〜てか、おそろー」

後ろからひょっこり顔を出した新名の手にも、同じ紙袋がある。知らんうちに意気投合したらしい。
どこか釈然としない。かと言ってアロマなんとかに興味を持とうとは思わない。それは別にどうでもよくて、今考えることはそんな浮ついたことじゃない。新名がここに現れたことは、考えようによってはラッキーだった。

「んじゃ、オレお先に帰りますんで」
「ああ、ちっと待て」
「へっ?」
「オマエ、こいつ送ってってくんねーか?」

夏碕を親指で指した俺に、驚いた顔をしたのは3人ともだった。俺と一緒に帰るより新名のほうが安全だろう。それに、もう二人並んでいるようなところを見られないほうがいいに違いない。
心配しすぎなのかもしれない。けど、やれることは全部やっておきたかった。
そんな俺の考えを読めるはずもない。いいや、読めなくていいんだ。三人は怪訝な顔をしていたけれど、まず最初に新名がうろたえた声を出す。

「え?オレ?や、別に……いいんスけど、琥一さんは?」
「用事思い出した」
「えっ、ウソ……ごめん、付き合わせて……」
「ああいや、そうじゃなくて――アレだ。時間ならまだあるけどよ、送っていく時間はねぇだろうから、よ……」

本心から申し訳なさそうな顔をした夏碕に、苦しさを感じた。俺はウソをついている。
それがコイツを守るためだとしても、苦しさは消えない。
俺が馬鹿なことをしない人間だったなら、こんな風にウソだってつかずに済んだことを、もう俺は知っているから。

20121013