虹のワルツ

87. 光る一粒の何かを探し出せ(美奈子)

負けるもんか。
私はその一心で、放課後の校舎をずんずん歩いていた。別に誰かと勝負してるわけでもないのに。

琉夏くんは、電話にも出てくれなかったし、メールも返してくれていない。
電話は、バイトだったら確かにとれなかっただろうけど、家に帰ってからかけなおしてくれたっていいのに。今までだって、例えば私がどこかに遊びに行こうと誘うときも、留守電に入れておけば折り返し――
あっ、と思って立ち止まる。
もしかして、私が留守電に何も入れなかったから、だろうか。
ひょっとしたら琉夏くんだって、顔を見て話したいとかそういうこと、考えてるかもしれない。
でも、メールくらい返してくれたっていいのに、って、そのくらいは、思ってる。
自分でも考えてることがぐちゃぐちゃで、怒ったらいいのか悲しんだらいいのか、よくわからない。
大体、琉夏くんが突然帰ったことにだって心当たりがあるわけなかった。何かまずいことを言ったとか、そういうことなら謝りたいって思ったし、そうじゃないならそうじゃないって、ちゃんと言って欲しかった。
まるで自分だけが実体のない影に振り回されているみたいで、ひょっとして、だから私は拗ねて留守電に伝言を残さなかったのかもしれない。本当は琉夏くん、私がこんな風に悩んでることだって知らないかもしれない。
なんだかそれ、ずるいなって思った。


***


「琉夏なら補習受けてるぞー」

いつもよりのんびりした声で大迫先生が教えてくれた、空き教室に近づく。
今年の新入生から、はばたき学園のクラス数は一つ減って、一年生の教室が並ぶ廊下の一番端が空き教室になっている。普段なら誰かが勝手に入ってロッカーなんかを使わないように施錠されているけれど、最近ここは補習の場所になったらしい。

生徒は琉夏くんだけ。
先生は、この学校の人じゃない。

なんで教えてくれないんだろう。悔しいような惨めなような感情に目の前が少しぼやけた。何も知らない私を見て、教えてくれた大迫先生だって困ったように笑ってた。
でも、話してくれないのもしょうがないのかもしれない。『お姫様だよ』 って言われたからって、みんなから“そういうふうに”見られたからって、私たちの関係が今までと変わってしまったわけでもない。そう、多分、特別な存在なんかじゃないって突き放されたようで、それまでのこと、裏切られたみたいで、私はきっとさみしいんだと思う。……『裏切られたみたい』 って、私が勝手に思ってるだけだし。信頼みたいなもの、あったのかな。あったって、信じたいけど。

空き教室の前で、私はこの中に入ることをためらっていた。
大体、入っていいのかな。補習の邪魔はしちゃいけないって考えと、これを逃したら今度いつ琉夏くんを捕まえられるのかわからないからっていう、正当化したい感情が入り混じって、ドアに触れたままの私の手は一向に動かない。

にじむような夕陽が、ドアの擦りガラスからもれている。誰かが中にいるような気配は、するような気もするし、誰もいないのかもしれない。
けれど、時折椅子を引きずるような音や、黒板をすべっていくチョークの乾いた音が聞こえる。
きっと、この中に琉夏くんはいる。
カツカツと小気味よく響いていたチョークの音が途絶えた。あ、今なら入っても――そう思ったとき、

「わっ!」

いきなりドアが内側から開けられる。
目の前に現れた背の高い人は琉夏くんではなく、

「あ、びっくりさせちゃいましたね。すみません」

モスグリーンのカーディガンがよく似合う、ふわっとした雰囲気の男の人だった。見たこともないその人に、私は驚いて声を上げてしまう。この人が、先生?

「琉夏君に用事?」
「え?あ、あの、私――!ご、ごめんなさい!邪魔するつもりじゃ……」
「あれ?美奈子?」

チョークを持ったまま、琉夏くんはこちらに向かってくる。
顔を見るのが怖かった。だから、さっと顔を伏せてしまう。
一瞬だけ見えた黒板の字は、琉夏くんのだ。全部。
いつだって勉強なんてしたがらない琉夏くんが、自分でチョークなんかもって、黒板にあんなにたくさんの数式書いてて、本当に、そんなつもりないのに邪魔したみたいで、怒られるって思って。だから顔を伏せた。
沈黙は、居心地が悪くて嫌いだ。

「琉夏君、解けました?」

黙りこんだ私、何も言わない琉夏くん。その頭の上を、ふわふわした優しい声が掠めるように飛んでいく。
琉夏くんはただ、「まだわかんない。でも絶対解く」 と、いつにない調子の強い声で答えた。
それがまるで、私の知らない人みたいで、私はとても――……
さみしかった。

「じゃあ、休憩にしましょう。先生、コーヒーでも買ってきます……あ、琉夏君はココアでしたね。君は?」

あったかい声にたずねられて、私が答えようとすると、

「いいよ先生、俺が買ってくる」

琉夏くんはなんでもないように言って、私の横をすり抜けて出て行ってしまった。
ブラックでお願いしますよー。と、「先生」 と呼ばれたその人は声をかけた。顔を伏せたままの私には、琉夏くんが振り返ったかどうかすら、わからない。確かめるのも怖くて、顔を伏せたまま。
だけど先生はふわふわした声のまま、私を促す。

「じゃあ君も、中で琉夏君を待ってましょう」
「え、でも……」

今のって完全に避けられてるようなものだったし、やっぱり帰ろうかなって、そう言おうと思って顔を上げると、

「廊下、寒いですから」

春の陽だまりみたいな笑顔だなぁって、思った。
思わず、そのあったかさに見とれそうになって、はっとする。

「あの、私、違うんです!用事とかそういうのじゃなくて、その……だから、帰ります……」
「でも琉夏君、きっと飲み物を買って来てくれますよ。君の分も」

まるで何もかも、見通されてるような笑顔だった。


***


結局、「一人で待ってるのも味気ないですから」 と笑う先生にほだされるようにして、私は空き教室の椅子の一つに腰をおろす。うっすらと埃をまとった机を見ていると、時が止まった別の世界に来たような気持ちになった。例えば数年前の高校生が卒業したまま、置き去りにされた教室を見ている気分。
見上げた黒板には見たこともない記号が縦横無尽に走り回った跡が、教卓の上には赤い分厚い本とか、見たこともない専門書みたいな本が数冊、読み散らかしたように広がっていた。
どれも新品じゃないけれど、使い古しってわけでもない。誰かがごく最近、がんばって勉強し始めたのが見て取れるくらいのもの。そして、その誰かっていうのは他でもない琉夏くんなんだろう。

「すごいな……」

思わず声に出ていた感想に、先生は微笑んだ。なんだか少し、恥ずかしくなる。慌てて顔の前で手を振りながら取り繕うようなことを口にしてしまった。

「あ、えっと、私、文系で、こんなに難しいの絶対解けないから……」
「大丈夫。多分これ、高校生で解ける人はあんまり……うーん、ほとんど、いませんよ」
「え……?」
「大学入試だとしても、こういう問題はどこの大学も出してこないような、そんな問題ばっかりです」
「そ、そうなんですか……」

そんなに難しいことをやってるなんて琉夏くん、すごいな。氷室先生の出す難問を一人だけ解くくらいだから、そのくらい当然なのかもしれない。私には、まるで異国の言葉にしか見えない数式を眺めても、何もわからない。
大体、琉夏くんの考えてること、私、わかったことなんて今までにあったかなぁ。
まだ解けてないって言ってたけど、結構いいところまで行っているのかもしれない。そう、先生に聞くと、「そうですね……もう少しで解法を思いつくんじゃないかな」 って。感心と驚嘆のため息をつくと、先生はちょっと眉を下げた。

「でも、こんなのはほとんどの人が解けなくたっていい問題なんです。琉夏君にだって、絶対必要なことじゃない」
「え……?でも、これ補習なんじゃ……」

てっきり、補習というくらいで、これは琉夏くんに必要なことだって思っていたから疑問を口にしてしまう。思ったことがすぐに顔に出る私を先生は少しおかしそうに笑って、少しだけ真剣そうな顔をした。

「必要のないことでも、意味のないことじゃないんです。琉夏君を見ていると、無心で数学と向き合っているように思えます。きっと、そうやって誠実に誰かと、何かと向き合えるようになりたいって、琉夏君は思っているんじゃないかな」

先生の勝手な想像ですけど。
と、慌てて付け加えるけれど、先生は間違ったことを言っていないような気がした。
無趣味だって言ってた琉夏くんは、確かに先生の言うとおりに何かに没頭することもなかったのかもしれない。もちろん、私は彼の全てを知っているわけじゃないけど。
例えば夏碕ちゃんなら新体操をするときに、カレンならお洋服のデザインを考えたりするときに、ミヨなら星空に耳を澄ませるときに、ただただひたむきな感情に包まれるだけになるのかもしれない。そういう時間には、人は自分と心から向き合えるのかもしれない。
琉夏くんがそんな気持ちでいるかもしれないなんて、今まで考え付かなかった。盲点、って言うのかわからないけれど、目から鱗が落ちるっていうのはこういう感じなのかもしれない。
何も言えない私のことだって、初対面なのにまるでお見通しみたいな顔で、先生はゆったり微笑んだまま続ける。

「そうできるようになるために、そのために必要なのは数学じゃなくたっていいんです。たまたま、数学が丁度良かったっていうのは、ありますけど。
……琉夏君が何か“答え”のようなものを探していて、それを見つけられなかったら、先生はきっと“答え”を用意しなきゃいけないんだと思います。だけど多分、そうするまでもないんじゃないかな、とも、思います」

一息呼吸を入れた先生に、私は少し間を開けて尋ねた。

「どうしてですか?」
「琉夏君、“答え”だけはわかってるって思うんです。それをどうやって表現したらいいのか、それがわからないんじゃないかな」
「それ……数学の話ですか?」

あはは、と、先生は笑った。どうやら的外れなことを言ってしまったみたいで、私はまた恥ずかしくなる。
先生は、私の間抜けな質問には答えずに話を続けた。

「数学でも化学でも、なんでもです。大切なのは結果じゃありません。過程が、大事なんです。結果を予想する、そこに至るまでの道筋を組み立てる、そして試す。だけど、いつも予想してた結果にたどり着けるわけじゃありません。だからって、何もしないのは一番だめなことです」
「はぁ……」
「結果を教えてあげることはできても、先生には、プロセスは教えられません。どう生きていくかなんて、人に指図されることじゃありませんから」
「……なんだか、難しいです」

先生の話は抽象的なようで具体的なようで、私が思い描いていることと、先生が伝えたいことが合っているのか不安になる。

「あぁ、すみません。お説教みたいになって」
「そんなことないです。全然……お説教だなんて」

でも一つだけわかることがあって、それは――きっと、先生はいい先生だ。ってこと。
琉夏くんのことをすごく考えてくれてて、間違ってなんかなくて、無理強いも否定もしない、先生みたいな人ならきっと琉夏くんも自分をさらけ出せるのかもしれない。やっぱり私が、昨日みたいに無理矢理琉夏くんから答えを聞きだそうとしたのは、間違っていたのかもしれないって、そう思った。
長く生きている人が言うことのほうが、ずっとずっと、正しい気がした。

「ただいまー」

間延びした声と一緒に琉夏くんが帰ってきた。私は、黙って琉夏くんの腕のあたりに視線を彷徨わせる。
片手にココアを二つ、もう片方の手に一つの缶コーヒー。
熱い熱いと言いながら、私と先生の間の机に琉夏くんは三つの缶を置いた。

「やや、ご苦労様です。お金、後で渡しますね」
「あ、私も……」
「いいよ。今日は俺が奢る。先生にはいつものお礼」

珍しいこともあるなぁと思って琉夏くんの顔を見上げる。ばっちり、視線が合わさってしまう。気まずくて、そらす。
そんな一連の行動の直後に自己嫌悪が浮かんできた。何してんだろ、私。
どうしてだろう。何が気まずいんだろう。
考えても、思い当たることなんてすぐには浮かばないようで、それでいて、何もかもが原因にも思える。でもあやふやだった琉夏くんが、私の知らないところで前を向いてまっすぐ立って、歩き出そうとしているのを知って、多分それに動揺しているんだと思った。
そしてそれは、応援しなきゃいけないことなんだと思う。わかっているのにできない理由は、多分琉夏くんが何も言ってくれないからだ。見守ってるだけなんて嫌で、私だって隣を一緒に歩きたいって、言えないからだ。
こんなこと、こんな子供みたいな我侭、言えない。
誰も何も言わなかった。ちょっとだけ緊張したような空気を引き裂いたのは、琉夏くんのお腹の音だった。

「……てへ」

今日もお昼に何も食べてないから。と、琉夏くんが居心地悪そうに呟いた。それを聞きながら、私は抱えていた鞄を開ける。何かに引きずられて、「いつも通り」 の真ん中に放り込まれたような感じだった。
やっぱり、私だけ空回りしてたのかもしれない。それは寂しいことなんだけど、だけど、やっぱり私、こんな風な“いつも”がいいんだ。まだ琉夏くんと一緒にいられる。まだ私のことも見てくれる。
そして私は、やっぱりずっと一緒がいい。

「お菓子、あるけど……食べる?」

そういうと、琉夏くんはぱぁっと目を輝かせた。ように見えた。

「食べる!」

もしかしたらそれは気のせいかもしれなくて、私がそう願っているだけなのかもしれなくて、だけど、どうしてだろう。
琉夏くんのこと、信じようって思った。いつかきっと私にも話してくれるときがくるに違いないって思えた。
ずっと前から信じてたはずなのに、どうして今こう思ったのか自分でもよくわからない。

「先生も貰っていいですか?」
「ふふ、どうぞ?」
「では、いただきます」

それはひょっとしたら先生のせいかもしれない。
ふわふわしている、先生のまとった空気みたいなものが心の澱も綺麗に溶かしていくみたい。
チョコレートクッキーを口に放り込む二人を見ていると、笑顔になれた。

私、大迫先生みたいに元気いっぱいの、明るい先生みたいになりたいって思ってた。だけど今、目の前で全てを包み込むような笑顔を見せる、この先生みたいにもなりたいって、強く思う。それは多分、先生が琉夏くんの手をとることが出来た人だから、なのかもしれない。正直、うらやましいのと嫉妬が半分ずつ。
もうじき日が落ちる。12月、ほんのわずかだけ教室の中に残った橙色の光が、私たちをしばらく包んだまま。今日もまた終わっていく一日を思いながら、私は同時に色々なことを考えていた。今日が積み重なってできる過去のことと、同じように積み上げられていく未来のこと。今はまだ何もわからないままだけど、何をどうすれば『正しい』 と褒められるのかわからないけれど。
だけど――
私は私のやり方で、いいんじゃないかなぁって、私たちを見ている先生の目は、そう言ってくれているような気がした。
先生が見る琉夏くんと、私が見ている琉夏くんは、多分違ってて、それは当たり前のことで、そのどちらもが正しいことなんだと思う。
先生は、自分が見た琉夏くんを私に教えてくれた。琉夏くんのことを、私が知らなかった琉夏くんのことを教えてくれた。
そうしてまた私は琉夏くんのことを知ることができた。



ずいぶん後になって琉夏くんは、若王子先生との“進路指導”が楽しかったことを嬉しそうに話してくれた。
今まで勉強なんてしたことがなくて、そんな自分が突然勉強するのが恥ずかしいようで言い出せなかったことも、氷室先生が補習枠として扱ってくれたおかげで卒業単位を揃えることができたことも、全部話してくれた。
そして、琉夏くんは私にこう言ってくれた。

『美奈子がいてくれたから、俺は変わろうって思えた。美奈子が待っていてくれて、待っていてくれたのが他の誰でもない美奈子で、嬉しかった。だから、ありがとう』

20121117