虹のワルツ

89. 錆付いた心の音色(琥一)

夏碕たちと別れて、一人で帰る道すがら、こんなことを思い出していた。

『ケンカなんかしちゃだめだよ』

入学してすぐの頃。不良のレッテルを貼られた俺たちには誰も近寄ろうとしなかったのに、アイツだけは違った。
口やかましいくらいに俺たち兄弟を心配してくれる幼馴染は、心底不安そうな顔でそんなことを言っていた。
そのとき俺は――嬉しかったのかもしれない。
誰かに心配されるなんてことは経験のないことだったし、まさかこの身に降りかかることだとは思ってもいなかった。そんなことを望めるような人間じゃないと思っていたから。
それに、ひどく申し訳なかった。
こんなのが幼馴染なんてこと、アイツだって知られたくないだろうに。まっとうに生きているに違いない小波の周りに、暗い影なんて落としたくなかった。ルカもそう思っていると信じてた。
そういう気持ちが八割と、女相手にどう振舞っていいのかわからないのが残りの二割で、俺たちは――少なくとも俺は、小波を避けていたように思う。
なのにアイツときたらルカと俺に再会できて嬉しいだのなんだのと言いながらそこかしこに連れまわす。今となって思えば、無遠慮と言っていいようなアイツの強引さが俺たちを引き上げてくれたのかもしれない。
暗い影なんて落とせるはずがなかった。
アイツはまるで、太陽みたいに影も闇も蹴散らしてくれそうだと思った。


***


帰り着いたWEST BEACHは、遠目からでも明かりがついているのがわかった。ルカが先に帰っている。
ドアの前でそれを開けることもしないまま、俺はルカにこの傷をどう説明したものか考えあぐねていた。
俺がそう思っている以上に、ルカは小波のことを大切に思っているに違いない。二人に、これ以上心配はかけたくないし、失望もされたくない。
ルカは俺のこの傷を目ざとく見つけて問い詰めるだろう。
また、喧嘩したのかと。
俺が何を言っても信じてもらえなさそうな気がした。そうに違いない。

『そんなことないよ』

夏碕がそう言ってくれたのは、本心なんだろうか。信じることも信頼を得ようと努力することもしないまま、俺はアイツの優しさに甘えようとしている。アイツが何もかもを、笑って許してくれるのなら。
……馬鹿馬鹿しい。そんなことあるはずがない。
けれど、一度でいいから笑ってくれたのなら、俺はそれだけで救われるような気すらしていた。

俺は、ドアを開けるや否や予想外のことに動きを止めた。
まず一つが、ルカが珍しくカウンターキッチンの中で料理をしていたこと。

「おかえりーコウ――」
「オマエ……」

もう一つ。ルカの頬には、どう考えたって殴られてできたとしか思えない青痣が広がっていた。

「…………」
「…………」

お互いの顔を凝視したまま、かける言葉も見つからずに立ち尽くす。俺はともかく、ルカまで、なんで。
まさかとは思うけれど、同じ日に喧嘩を吹っかけられるわけが――
ある、か。
アイツらは二人じゃなかった。一対一が二つ、馬鹿な余多でもわかりそうな単純な足し算だ。

「俺、何もしてないよ」

咎められるのを恐れる子供のように、ルカは俺の目を見て呟いた。

「俺だって……何もしてねぇ」

非難されているわけでもないのに、俺もついそんな言葉を口にしてしまう。
ただ、お互いの口調には悲劇めいた深刻さはこれっぽっちもなくて、『くだらねぇことに巻き込まれて参ったよなぁ』 と言いたがっている、そんな呆れたような響きがあった。そういう風でいられるのが、不思議だった。
ルカが火にかけたままのフライパンの中身はここから見えないけれど、何かの香ばしいにおいがそこらじゅうに広がっていた。
醤油の焦げたようなにおい……焦げた……焦げた!?
ルカもフライパンに視線を戻す。自然、それは俺たちを容赦なく日常に引き戻すのだった。

「あ、ヤベ」
「馬鹿テメェ、誰が焦げ付いたの落とすと思ってんだ!」


***


案の定焦げかけになってしまった夕飯のしょうが焼きを平らげた後、俺はきっとフライパンの掃除という至極面倒なことを押し付けられるのだろうと思いながら、ふとルカに聞いてみた。

「オマエ、しょうが焼きなんて作れたんだな」

ホットケーキとゆで卵しか作れなかったんだから大した進歩だろう。ルカは、感心している俺を妙に勝ち誇ったような顔で見返す。なんだと思って眉を寄せていると、今度は手招きするようなあの、“立ち話に嵩じるオバちゃん特有のジェスチャー”付きで、気持ち悪い声を出しつつ身を乗り出した。

「瑞野さんちの奥さんに聞いたのよ」

身を乗り出したルカから逃れるように、俺はソファーの背もたれに首の後ろまでくっつけるようにしてのけぞる。
常連とは言えいつの間にそんなに仲良くなってたんだ。マダムキラーかオマエは。と言いそうになって、あまり気分のいい言葉ではないと思い当たって、やめた。
人付き合いのいいルカならともかく、俺は他人の、しかも惚れた女の母親となんて到底仲良くなれそうにないと思った。……付き合っているわけでもないから、仲良くなる必要はないだろうが。
ともかく、所詮ルカの作ったものは歴戦の(?)主婦には到底及ぶはずもない。にも関わらず、ルカは自分の腕前に酔いしれているようだった。それに水をさすほど俺だって非情ではなかった。

「旨かっただろ?めんつゆとしょうがのチューブで簡単だったしさ」
「あ?そんなもんウチにあったか?」
「買った」
「……なんでそんな、それ以外に使えねぇようなもん買って来んだバカ」
「ああ、平気平気!めんつゆで親子丼作れるし、しょうがは……あ、ジンジャエールになんないかな?」
「ならねぇだろ」

結局、相変わらず余計なことしかしてねぇ。
どうやって処理したものかと考えあぐねていると、ルカは知らん顔で食器をカウンターへ運び始めた。いつもなら食ったら食ったで早々に部屋に上がってしまうくせに珍しい。
もしかして、喧嘩をした後ろめたさでもあるんだろうか。
そう考えることが、イコール、ルカを信じていないことだ。自分で自分の考えが嫌になった。
ルカが喧嘩をしていないのかどうなのか、俺だってわからない。ひょっとしたら、アイツもアイツなりに俺に心配をかけたくなくて嘘をつこうとしているのかもしれない。切れた唇の端に、しょうが焼きのタレが染みてまだじりじりと痛んだ。
もしも本当に俺たち二人ともが喧嘩をしたわけでもないのに相手のことを疑っているのだとしたら、こんなに皮肉なことはないと思う。
そんなのは俺だってそうだ。お互い様だ。すんでのところで自分を抑えて、幸か不幸かアイツらがいたから手を出さずに済んだだけだ。一人だったらどうなってたかわからない。
それに、そもそもこういうことになったのは俺のせいだ。余計なことをしたのは俺のほうだ。
俺が、ガキの頃の俺が――

その時二階からかすかに携帯の着信音が流れた。俺のはポケットの中だから、ルカのだろう。本人はシンクの中に食器を並べるのに夢中で気がついていない。教えてやると、のろのろとした足取りで階段に向かっていった。
そんなんじゃすぐに切れるだろうがと思っていればやっぱり着信音は途切れ、ルカは一応相手を確認する気はあるらしく、立ち止まることなく二階へと階段を上り続けている。
俺はと言えばコーヒーでも入れようかと思って立ち上がりかけたところだったのに、それを邪魔するようにポケットの中で俺の携帯が震えだす。
確信なんてないけれど嫌な予感みたいなものを覚えながらそれを開く。
画面に出たのは、お袋の名前だった。面倒、とか、そういう感情より先に、珍しいこともあるもんだと思った。いつも電話してくるのは親父ばかりで、お袋はせいぜいメールしかしてこない。何かあったのだろうか。

「もしもし?」
『あら、あんたは出たのね。琉夏にもかけたのにあの子まだ外ほっつき歩いてるの?バイト?』

色々と思いつく限りの嫌な想像をして、緊張しながら電話に出たのにお袋の声はいつもどおりだった。
携帯を持って二階から降りてくるルカが、「母さん?」 と確認するように首を傾げる。軽く頷いて返事をし、お袋に対しても言葉を返す。

「メシ食ってた。……ああ、しょうが焼き。ルカが作った」
「おいしかったって言えよー」
「ウルセ。オマエ暇ならコーヒーくらい淹れろ。――ああいや、何でもねぇよ」

ルカは「ココアふたつ入りましたー」 と、ふざけながらカウンターの中に入っていった。こっちを見もしないルカを一睨みしたあと、ため息をつく。
俺の返事を聞いたお袋は心底びっくりしたような声を上げていたが、随分長い『へぇ』 の相槌の後で感心、いっそ感動したような声色でこう言う。やっぱりルカが料理をすることは、親にとっても太陽が西から昇るくらいのインパクトを持っているらしい。

『あんたたちちゃんと食べてるのねぇ。いつも琉夏が料理してるの?』
「なわけねぇだろ。たまたま今日だけだ」
『そうよねぇ。いつも出来合いのものとかばっかり食べてるんでしょう?ちゃんと野菜も食べないとだめよ?あんたたち小さいときからホントに……』

始まった。
俺が女を面倒がるようになった原因の一つは、お袋の長話だと思っている。脱線を繰り返して本題を見失う一方的なまさに“マシンガントーク”を適当に聞き流しながらついでとばかりにカウンターの雑誌を片付けることにした。二ヶ月前の雑誌、いらね。鈴木から借りてた漫画……明日返す。

「ちゃんと食うから。つーか食ってるから。 で?」
『ん?』

とぼけた様な声だった。
カウンターの掃除は続く。大半を仕分けしたところで俺は眉をひそめた。なんだこの、人には見せられないようないかがわしい雑誌は。ルカの方を見ると、「俺じゃない」 と言いたげに首を振っている。じゃあなんで覚えのない本があるんだよ。とにかく、捨てる。

「何か用あんだろ」
『ああ、用ね……』

言いよどんだお袋の電話から、一瞬俺の意識が離れる。カウンターの雑誌の山から最後に出てきたのは、いつか花椿が俺に押し付けた『はばたきウォッチャー』 だった。表紙の写真は、言うまでもない。
あの日のことを思い出すようで少し眉を寄せてしまう。それにもお構いなしに、お袋はぐだぐだと口ごもり続けた。

『用って言うか、ねぇ……』
「何だよ、ねぇなら切るぞ」
『ちょっと待ちなさいって。ほんっとに誰に似てせっかちなんだか……』
「しらねぇよ」
『あんたたち年末は帰るんでしょう?』
「ああ、一応」
『……そんなら今話しといたほうがいいわよねぇ』
「だからなんだよ」
『本当はお父さんから話した方がいいんだけどねぇ、ほら、忘年会シーズンだからお父さん毎日飲み会で今日も――』

またこれだ。
キリがないので俺は早々に諦めてルカを生贄にささげることにした。どうせ最初にルカにかけてきたんだからルカに相手させてもいいだろう。

「オマエちょっと代われ」
「俺?コウに話なんじゃないの?」
「俺はフライパン洗う」

放り投げるように携帯を押し付けられたルカは、困惑しながらも少しだけ嫌そうな顔をした。わからないでもない。女の無意味な長話が好きな男なんているわけねぇ。
観念したらしいルカは、通話口に向かって呆れたように話し始めた。

「うん、俺。コウに押し付けられた。……フライパン洗うって。え?アハハ、そう。焦がしちゃった」

少し雑に対応しすぎたな、と思った。いつか家に帰ったとき、俺たちがいないと家が広く感じてしまうと肩を落としていたお袋の姿を思い出して。
ああいう風に振舞っているのは強がりなのかもしれない。
ルカが一々相手をしてやってるのを背中で聞きながら、少しだけ後悔した。
同時に、まさか自分がそんなことを気にするとも思っていなかったから、今の心境がどうにも、気まずさのような居心地の悪さしか感じない。俺はこれがどういうことなのか、成長したってことなのか、わからなかった。

「女の子なんて連れ込んでないよ。ちゃんと“約束”も守ってる。……ん。元気だよ。風邪もひいてないし」

“約束”
そういえばそんなこともあったなと、俺は雑誌を紐でくくる手を止めた。
三年前のちょうど今頃だったように思う。
突然ルカは『俺、高校に入ったら一人暮らしがしたいんだ』 と言い出した。当然、俺も親父もお袋も、アイツが何を言い出したのか理解できずに目を白黒させるばかりで。
なのにアイツはいつからそんなことを考えていたのか、淡々と一人暮らしをするにあたっての計画を語り始めた。
殴られやしないかと恐れもせず、緊張もしていないような顔が腹立たしかった。そんなにこの家が嫌なら勝手にしろとも思った。
そのくせ俺は、結局ルカを放っておけなかった。
自分でも整理のつかないままに家を飛び出そうとした二人に親父が提示したのが、その“約束”だった。

「親父も元気?そう、よかった。あ、そうだ。お米とか送ってもらえるとすっごく助かるんだけど。俺はホットケーキミックスでもいいけどコウが怒るから」
「テメェがさっき親子丼がどうのって言ってただろ」

もしも“約束”を破ったら、問答無用で連れ帰す。それが、家を出る条件だった。いくつかの決まりごとは、それでも相当に甘いと思う。光熱費だって、そのくらいは払わせろと言うお袋に頼りっぱなしだ。もっとも、所詮高校生にすぎない俺たちがガスやら水道やらの契約ができたとは思えないから、そうするしかなかったのかもしれない。いらねぇって言ってるのに、米やらレトルトの食品は、毎回絶妙なタイミングで送られてくる。ルカも俺も慣れすぎて、最近じゃ甘えっぱなしだった。
おかげで何とか今まで、ジリ貧になりながらも俺たちはここで暮らすことができた。
今ルカが、約束を守っていると言った。ルカは、俺のことを信用してくれていた。なのに俺にはそれができなかった。
俺はルカが、俺のせいで歪んでしまったと思っていた。俺を疑うだろうと、そういう風に変わってしまっただろうと思っていた。
捨てる雑誌を紐で縛って、床の上に下ろす。ここに住むために最初に来たときは、砂まみれの床にうんざりしていたことを思い出した。
あれからもうすぐ、三年になる。
知らないことが少しだけ減った。できることは少しずつ増えていった。
汚いのは、俺だけだった。
それでよかったんだと思う。ルカは変わってなんかいなかった。それだけで、十分だ。
俺たちはほんの少しくらいでも、大人になれたんだろうか。
やかんの音だけがWEST BEACHの中を満たしている。外は静かで、俺は窓辺に近寄って夜の海を見ようとした。先も見えない闇の中、はらはらとそれは姿を現した。

「え……?今月いっぱいで……?」

その日、この冬最初の雪が降った。
海岸沿いにも関わらず、風も吹かない静かな夜だった。
窓ガラス越しに、驚いたルカと視線がぶつかった。
小さなダイナーには暖房器具もなく、厳冬をどうやって乗り切ろうかと懸念していたその矢先、

俺たちの生活は、終わりを告げられた。

20121202