虹のワルツ

92. 笑顔のためのウソと嘘のための笑顔(琥一)

相変わらず、このダイナーは隙間風がひどい。

こんなところに、しかもこんな季節に人を呼ぶなんていっそ罰ゲームかなんかだろうとルカを諌めたものの、ヤツは、当たり前だが、聞く耳なんか持たなかった。
ルカにしてみればそんなことはもう、どうでもいいことなのかもしれない。肉体の味わう感覚に鈍いアイツは、その分精神的な物事に敏感なんだろうかとも思う。つまり、情緒的で非科学的なことを言うけど、そこに“誰か”がいるだけで充分暖かいと思っているんじゃないか、と。

二十五日の夕方に、WEST BEACHでクリスマスパーティーをしようと提案したルカに、予想はできていたが小波は二つ返事で快諾。夏碕は、こっちは予想外だったが喜んで参加すると言い出した。
俺たちには縁のない入試を控えて大変だろうに、無理するなと言うと「そんな楽しそうなこと、私だけ仲間はずれなんてイヤよ」 とそっぽを向く。
……まぁ、本人がいいと言ってるならいいんだろう。アイツは頭もいいし、花椿とか宇賀神も太鼓判を押してたし。だからって確実に入試に受かるわけでは、ないだろうけど。

「こんにちはー!おじゃましまーす!」

昼前にやってきた小波は、やたらとでかい包みを引っさげてきた。なんでも「男所帯には食べ物なんて期待できない」 と、朝から料理に励んでいたらしい。ひっかかる言い方だが、旨いものが食えるに越したことはない。

「ねぇここ、大きなお皿とかある?あとレンジで暖めたりできる?」
「皿か、ちっと待ってろ」
「すっげー!骨付きのフライドチキン!」
「あー!ルカくん食べちゃだめってば!もー!」
「ほら、皿。 おお、ローストビーフもあんじゃねぇか」
「ちょっと!だからつまみ食いしないの!」

夕方に向けて準備をする間、と言ってもルカだけは思う存分足を引っ張っていたわけだが、俺は幼馴染の顔を見ながら昨夜のことを考えていた。

『夏碕ちゃんに、クリスマスプレゼントをしたいの。琥一くんじゃなきゃダメなの』

その言葉は直接本人から聞いたわけじゃない。花椿が含みのある顔で言っていたから、もしかしたら小波もダシにされただけなのかもしれない。
何がどういうことなのかわからない俺に、花椿と宇賀神は端的に『そこで二人で踊って来い』 と言うだけだった。
冗談じゃない、と言いたかった。
こんな大勢の前でまた踊るなんてまっぴらごめんだって気持ちと、演劇のときに感じていた、相手が夏碕だったらどれだけよかっただろうかという気持ちがあって。
だから、ポーズだとしても『冗談じゃない』 とは言えなかった。
もしもアイツら二人の口から『夏碕はこの三年、アンタと踊れなかったことを残念に思っている』 ことを聞かされなかったら、俺は何もしなかったかもしれない。
もしも夏碕がそれを望んでいるのなら、願いを叶えられるのは俺だけだ。そう思うと、男冥利に尽きるというのはこういうことかと、体が熱くなるような気がした。
その勢いで、他の男に話しかけられていたアイツを掻っ攫うようにして――あまり、覚えていない。
アイツの、幸せそうな顔以外は。
多分俺が望んでいたのは、それだけだから。



日が暮れるころに、夏碕も姿を見せた。
予備校の最後の一コマが終わるや否や駆け出したのか、少し息を荒げ、頬を赤くして、商店街から大きな箱をひっさげて。どう見てもケーキの類が入っていそうな白い箱は、

「これね、アナスタシアのチョコレートケーキ」

だそうだ。
甘党のルカと小波は諸手を挙げて大歓喜しているが、俺は素直には喜べない。それを見越しているのかいないのか、夏碕は柔らかく笑った。

「今日ぐらいは、いいじゃない」

クリスマスなんだから。そう、笑う。
そもそもルカが今日、こんな辺鄙なところでパーティーをしようと言い出したのには理由があった。

『このWest Beachでの四人の思い出が、あんな悲しいことだけなのはイヤなんだ』

うやむやに流していた記憶を掘り起こされる痛み、それ以上に、掘り起こす側の痛み。それを抱えたままこの場を去るのは確かに、俺としても心残りといえばそうだった。
思い出したくない思い出として封じ込めている俺とは対照的に、ルカはその過去すら一つずつ、丁寧に掘り起こして泥を払い、ショーケースに飾ろうとしているように思えた。前向き、そう言うのは簡単で安っぽいけれど、ルカは日のあたる場所に足を踏み出そうとしているんだと思った。その見つめる先に、俺とは別の道が、あたたかで尊い道があるように見えた。

俺が電気を消すと、小波が調達してきたキャンドルにルカが火を点し、夏碕はわっと歓声を上げた。
甘いオレンジの炎が照らす頬を見ていると、泣き出したくなるような気がした。子供の頃、こうして誕生日を祝ってもらったことがある。両親に。まだルカがいない頃、俺だけが、たった一人の子供だった頃。
家に帰りたいと思った。
いびつな家族でも、それは家族に変わりないと今なら思える。
他人でも、血がつながってなくても、「ああ、こいつらだけは、何があったって守りたい」 と、そう思えるならいいじゃないか、って。
それが家族とは呼べないような関係だったとしても。俺にとってはコイツらだって家族みたいなものなんだ。守ってやりたいし、何より、それが俺なんかに許されることとは思えないけれど、心が安らぐ存在だ。だから、いつまでも大事にしたいと、思う。

まだ完全に固まっていないような滑らかな表面のチョコレートケーキは、およそ三分の二がルカと小波の胃の中に吸い込まれていった。やっぱり俺は一切れだけでギブアップして、散々「もったいない」 だの「わかってない」 だの文句を言われる羽目になった。その分俺はローストビーフを何度も口に運んでは、野菜も食べろと叱られる。こんな何でもないことが、本当はとてつもなく稀有なことに思えた。そんなことを考えるのは、クリスマスのせいだと言えば、笑うだろうか。

「俺たち、ここを出て行くんだ」

脈絡もなくそんなことを切り出したルカも、ひょっとしたら同じようなことを感じていたのかもしれない。
アイツにとっても帰りたいと思える家が、今もきっと俺たちを待っている両親のいるあの家だとしたら、こんな馬鹿げた家出にも意味があったんだろうか。

ルカは淡々と話し始める。どうして俺たちがここに来たのか。
横顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。コーヒーの湯気は吹き抜けの天井をめがけ、その香りを散らしながら、消える。

「なんでこんなとこに住もうって思ったのか、俺も今じゃよくわかんない。若かったからかな?」
「ジジィみてーなこと言ってんじゃねぇよ」

本当は、俺はわかっている。その事実を知りながらなお、ルカはそれを水に流そうとした。

「でも三年もここにいたから。少しは大人になったって思いたいよ」
「……まぁ、な」
「でも、どうして急に出て行くことにしたの?」

親父は三年前の三月、リビングのソファーに浅く腰掛けて俺たちと向かい合っていた。ちょうど、夏碕と小波と向き合っている今の俺たちのように。
『二人ともはばたき学園に受かったなら、家を出てもいい』
年の瀬に放たれた最初の条件は、少なくとも俺は受からないだろうことを見越しての言葉だったに違いない。が、ルカはともかく俺まで、多分ギリギリだったに違いないが、クリアしてしまった。
ぐうの音も出ないのか、それとも感心しているのか、言葉通りになんとも言えない顔の親父を俺は多分一生忘れられそうにない。
そして三月。ルカが指定した街外れのダイナーの鍵だけが、テーブルの上に載っていた。

『停学・退学・留年』
『補修を受けなければならないような試験結果を出す』
『警察のやっかいになる』

以上のどれか一つにでもあてはまれば、問答無用で連れ戻す。
これが親父の提示した最後の条件だった。
ルカは黙って聞いていた。俺も黙っていたけれど、内心では警察のやっかいにならないようにできるだろうか、と考えをめぐらせていた。今まで散々喧嘩に明け暮れて、親父やお袋を警察署まで来させたことは数知れない。
馬鹿共が絡んでくるのは俺たちじゃどうしようもねぇ。相手をしなきゃいいんだろうが、俺もルカもそんなに忍耐強いほうじゃない。どう考えても。
それが今の今まで奇跡的に、この生活を続けられた。結末は、「買い手が見つかった」 って、情緒もクソもない話だけど。
ふと、ひょっとして親父は、ルカの思いつきの我侭を逆手にとって俺たちを更正させようとしたんじゃないかと思いつく。その直後に、笑いで打ち消す。そんな小ざかしい真似をする前に、鉄拳が飛んでくるに違いないから。
ふと、夏碕と目が合った。どうしたのとでも聞きたそうな顔をしていた。

俺は結局あのことを謝っていない。大事なことも言えていない。
もしもこんな穏やかな空気が、感情が、この日限りのものだとして、俺はきちんと言えるだろうか。


***


午後八時の繁華街は賑やかだ。日付が変われば撤去されるイルミネーションやツリーに群がる人の群れ。その中に、俺と夏碕がいる。
遅くなる前にそれぞれを送っていこうと、そういうことになったのに、少しだけ時間をくれと言って俺は途中でバスを降りた。
夏碕は、上を見上げたりあちらこちらに視線を遣っては笑っている。その瞳の中に七色の光が映りこんでいた。
楽しそうな顔だ。楽しいのなら、それでいい。それが嘘じゃなきゃいいんだ。一瞬だって。

周りはカップルとか、家族とか、そういう“この場にふさわしい”人たちで溢れている。俺たちはふさわしいんだろうか。傍から見れば、そりゃ確かに男と女が一人ずつで、見た目ではその、カップルに見えなくもないかもしれない。
けど、こんな穏やかな風景を構成する一部になれているとは思えなかった。
思えなかったけれど、そうでありたいと願ってしまった。

「今までで一番豪華で、綺麗ね」

白い息に載った夏碕の言葉は、心底楽しそうで、幸せそうだった。
俺はここに連れてきただけだけど、こんな声色にしたのがまるで俺の手柄のように思えてきて、馬鹿みたいにも程があるが、うれしくてしょうがない。

「ありがとう、琥一くん」

どうしたら喜んでくれるだろうか、どうしたら笑ってくれるだろうか。
ない頭を必死で動かして、結局こんな所につれてくることしか思いつかなくて、でも夏碕は、その場でくるくる回りそうなくらいに喜んでくれた。
うれしかった。笑顔が込み上げてきた。
なんだ、結局喜んでるのは俺のほうじゃないか。
こんなことは自己満足でしかないのかもしれない。たかがこれくらいのことでアイツを楽しませて、それで許されるなんて、本気でそんなこと思ってるわけじゃない。けど、それでも俺は――

「なぁ、」

手招きをして夏碕を呼び寄せ、ダウンのポケットに入れておいた箱に触れた。ベルベットのしっとりとした感触の、丸みを帯びた直方体。

「なぁに?」

整えられた前髪の下の両目がキラキラと輝いていて、イルミネーションを吸い込んだ渦が浮かんでいる。
放射状に広がる睫が、瞬きをするたびに小さく震えた。それに合わせるように、俺の心臓もペースを速めた。

「……これ」

夏碕の目の前に箱を差し出して、言いたいことはあるはずなのに何も出てこない。
びっくりした顔で箱を受け取る夏碕だって、俺の言葉を待っているはずなのに、

「これ、くれる……の?」

先に口を開いたのはアイツだった。両手で大事そうに、まるで高価なものに触れるような手つきで。
だから思わず、

「気にすんなよ、安物だし、大したもんじゃねぇし……気にいらねぇかも、しれねぇけど」
「ううん!そんなことない!」

首をぶんぶんと左右に振って、顔を真っ赤にして、夏碕は叫ぶように否定した。案の定、周りの注目を浴びるわクスクスと笑われるわで最高に居心地が悪い。

「オマエ、」
「ご、ごめん……。あの、開けてもいい?」
「……ああ」

正直恥ずかしい。こんなもの、俺がどんな顔して買いに行ったのかなんて想像されたくもない。
花椿からは異様な勢いで指輪を勧められたものの、はっきり言って付き合ってもいない相手に贈るのは重過ぎるような気がした。だから、

「わ……!綺麗な、ネックレス」

無難といえば無難なんだろう。けど、無難でどこがいけないんだと開き直りたくもあった。
女の趣味なんてわからない。けど、ぶっとんだデザインは選んでないつもりだ。シルバーの台座に埋め込まれた小さな丸い石から伸びた細いチェーンは、きっと似合うと思ったし。

「それに、これ」

夏碕は口角を上げて、俺を見上げた。
知ってたのかと言いたそうな顔だった。俺だってそりゃ確かに、一ヶ月くらい前の俺なら、そんなこと興味もなかった。誕生石なんて。
女々しいことを知っているような気分になって、思わず俺はこんなことを口走った。

「オマエ、学園祭のときになくしたっつってただろ。だからよ、それに……あー、アレだ、ホワイトデーも何もしてねぇし、だから、いいんだよ」

言いながら、何がいいのか自分でもよくわからない。ああ、きっと今の俺は顔が赤いに違いない。
けど、浮かれ気分の街の真ん中なら、こんな顔しててもいいだろう。

「そっか……でも、うれしい。今度はなくさないように、ちゃんと大切にするね」

夏碕は今の説明で納得しているのかどうなのかわからないが、やたら神妙そうな顔をするので、ちょっとからかいたくなる。

「タンスの奥にでもしまっとくんじゃねぇだろうなぁ?」
「やっぱりその方がいいかな?」

まさかクソ真面目な顔でそんな返事をされるとは思わなかったので、俺は一瞬遅れて噴出した。

「じょ、冗談だってば……もう、笑いすぎだよ」

いいや今のは本気だった。そのくらいは、馬鹿な俺にだってわかる。そりゃあ、こういうものは身に着けてもらえれば嬉しいが、贈ったほうとしては貰い手の好きにしてくれとしか言えない。

「別に、タンスの中でもいいぜ。好きに使えよ」
「ううん、しまわないで、ずっとつけておこうかな」

――ネックレスなら、制服の下にもつけていられるだろう、なんてことを考えていたのを、見透かされたような気がした。
ブレスレットはしばらくつけていなかったし、これなら外からは見えないし。

「いい?」

俺の頭より少しだけ下にある小さな顔が、そっと見上げてきた。

「――ああ」
「よかった」

ふわりと笑って、夏碕はまた視線をイルミネーションへ遣った。相変わらず大切そうに両手で抱えた箱のせいで、俺はその手を掴むこともできない。
まぁ、いいか。

並んで、言葉もなくイルミネーションを観ていると、そのうち視界に白いものが混じり始めた。
雪だ。
周りの連中はホワイトクリスマスだのなんだの言ってはしゃぎ初めて、余計うるさくなってしまった。大体、ホワイトクリスマスってのは雪が積もって初めてホワイトクリスマスだろ。夏碕も叫びこそはしないが、夜空を見上げてニコニコしている。
そんなにしたら首が痛くなるぞと言うと、だってクリスマスだから、と、答えになっていない答えが返ってきた。
わけがわからねぇが、嫌じゃない。俺だって多少は浮かれているだろうし。

「私、ホワイトクリスマスって初めてかもしれない」
「そうなのか?」
「うん!最高の、クリスマスだよ」

そう言われると、「これはホワイトクリスマスじゃない」 なんてますます言えなくなる。
俺は嘘ばっかり言っているわけでも、正直に生きているわけでもないけれど、誰かの笑顔のために存在する嘘だって、この世にはたくさんありそうな気がした。

「なら、よかった」

嘘をつくことでしか笑顔が見られないなんて、それは確かに悲しいことだ。けど、夏碕はここに来て笑ってくれた。俺が用意したプレゼントを喜んでくれた。充分じゃないか。俺にだって、惚れた女にできることがこんなにあった。
雪だって夜のうちに降り続ければ、日付が変わる頃にはホワイトクリスマスになるかもしれないんだ。

「ありがとう、琥一くん」
「ああ。けど、俺だってオマエには……感謝してるんだ」
「……どうして?」

馬鹿ばっかりやって、人に迷惑かけて、嫌われて、そんなだった今までのことを、少しだけ許されたような気分だった。
もしもそんな感情が夏碕のおかげだとしたら、俺だって礼を言っても足りないくらいだ。
黙ったままの俺を、アイツは笑う。

「変なの」

変でいいさ。
夏碕がやっとプレゼントをバッグの中に突っ込んで、俺はようやく、一日ぶりに、その手のひらを捕まえた。

20121225