虹のワルツ:番外 - if

I am (not) a hero. (03)

桜井兄弟が分析を進めていた一方、新体操部女子陣もまた彼女らなりに話し合いを進めようとしていた。

「女の敵だ。絶対タダじゃすまさない」
そういう井上はいつもながらのポーカーフェイスであるものの、アイスコーヒーのグラスの中身の氷をストローでガシガシつついている様子が“お怒りモード”である。
放課後の喫茶店の一角に陣取っているのは、新体操部の三人に加えて鈴木と琥一の計五人。ちなみに鈴木は、井上から秘かに琥一と夏碕の仲について聞き知っていたので、比較的すんなりと二人は打ち解けた。
琉夏と美奈子はアルバイトの日であるためそこにはいないものの、後で話を聞かせる算段になっている。
「やぁねえイノちゃんたら。女の敵じゃないわ、人類の敵よ」
目だけが笑っていない須藤がマンゴースムージーをやたらとかき混ぜながら、努めて冷静を装って訂正した。
「本当よね……どうやって償ってもらおうかしら……」
夏碕はいつものように、アイスレモンティーを井上と同じようにストローでつついている。彼女に限って言えば、表面に浮かんでいるレモンスライスをつつくのは癖なのだが、いつもより勢いがあるために無残にもレモンの果肉が液体の中で浮遊している。
ガッガッ
ぐるぐるぐるぐる
ざくざくざく
そうして三人は顔を見合わせて、ニッコリ笑ってためいきをつく。麗しい笑顔の裏で何を考えているのか、
「(女って怖ぇ……)」
琥一と鈴木が奇しくも同じ感想を抱いているのを知ってか知らずか、須藤が口を開いた。
「ホントは誰かにお願いしてぼっこぼこになってもらうのも考えたけど、それはやめようって思ったの」
誰かというのは自分たちのことかと思って琥一が「別に犯人見つかりゃあ、やるつもりだぜ。俺もルカも」と言うと、須藤は悲しそうな顔になった。
「ダメよぉ。あんな腐れ外道を殴ったりしたら、琉夏くんのキレイな手が汚れちゃうでしょう?」
俺はいいのかよ、とは琥一は言わない。
あれっ、今お嬢様の口から出てきてはいけない類の言葉が……と、鈴木は思いつつも、彼もまた口を挟まない。
ちなみにミーハーの須藤は恋愛感情ではない、いわば芸能人にでも向けるような好意を琉夏に抱いている。琥一は友人と思ってはいるものの、ミーハー感情は抱いていない。
「じゃ何?鈴木が“もぐ”の?」
井上はあっけらかんと発言する。
「もぐっ…………いや、何で俺!?」
何をもぐのかはスルーして、鈴木はアイスカフェオレのグラスを倒さんばかりに動揺した。さわやかなスポーツマンとの周りからの評価どおり、鈴木にはケンカをするような度胸はない。いわば文字通りの優男で、サッカーで鍛えられた肉体はそれ以外に使われることなどこれまでもこれからもないのだった。ちなみに“もぐ”度胸も、同じ男として持ち合わせていない。
「もぐ?何をもぐの?」
「オマエは知らなくていい……」
女の下ネタはえげつないというのが一般論だがこれではあんまりだ。琥一は清らかな目の夏碕にそのままでいてくれと、視線で訴えた。
「もいだり切ったり潰したりはしないわよぉ。もう」
傍系とは言え須藤一族の淑女から更に恐ろしい言葉が。些か青ざめた鈴木と琥一をよそに、須藤は人差し指を立てる。

「ぼっこぼこにしたっていつかは治っちゃうもの。それに殴ったり潰しちゃったりしたら、琥一くんが捕まっちゃう」
琉夏はどこいった。と言いたいのを飲み込んで、彼は続きを促した。
「だからね、これは社会的に――抹殺しないと」
オクターブ低い声にぞっとするような顔。やっぱ女って怖ぇ。鈴木は肩をすくめながらカフェオレの残りをすすった。
「警察沙汰にしちゃうってこと?」
「そうねー、そのくらい徹底的に社会的制裁を受けて欲しいのよね、私としては。でも……」
組んだ両手に顎を乗せたポーズは乙女チックなのだが、如何せん発言とのギャップがありすぎる。須藤の頭の中では一体どんな計算が進んでいるのか。他の4人は言葉の続きを待っている。
「でも、そのためには犯人が学園内部の人間じゃないほうがいいのよねえ……どうしよう、生徒だったりしたら」
本心から心配しているように眉を下げている彼女に、夏碕が代表して尋ねた。
「どうして?」
「だって、もしも生徒が犯人だったらきっと学校の中だけで解決されちゃうもの」
確かに。
あの温厚そうな理事長を筆頭に、有名進学校であるはばたき学園がゴシップのネタ元になるのは、学園の職員ならば誰だって避けたいと思うだろう。
物足りなさそうな顔の井上が、ぶっきらぼうに提案する。
「生徒だったら鈴木が潰しにいきゃあいいじゃん」
「ちょっ…………」
「ダメだってば。もう!鈴木くんを加害者にしてどうするのよー」
井上の自力救済案は却下され、鈴木の平穏なる生活はとりあえず確保された。が、彼女は更に続ける。
「じゃあ理事長に色目使って警察沙汰にしてもらう?夏碕、行け」
「なんでわた――」
「ダメだ」
琥一が思わず口を挟んで、その場がふわふわした雰囲気になってしまう。それを気恥ずかしく思ってか、彼は慌てて続けた。
「人に任せねぇでオマエがいきゃあいいだろうが」
「それは、ダメ!」
今度は鈴木が声を荒げる。さらに甘くなった雰囲気に、いつも冷静なはずの井上でさえ不本意そうに目を逸らして顔を赤くしていた。
「えー……のろけぇ?」
須藤だけが、平然と頬杖をついていた。それはさておき色目を使ってそれが利きでもしたら先に理事長が警察のやっかいになるだろうに。ド天然の仮面に隠されているが、意外にも須藤はこの中で一番成績が優秀なのだ。自然、頭の回転も人よりずっと早い。
先ほどの琥一のセリフに頬を染め、些か気まずそうにしていた夏碕がストローの入っていた紙袋をいじりながら口を開いた。
「ていうか……まだ犯人がどんなヤツで、何が目的なのかわかんないじゃない」
「そこよねぇ。ああいうのって大体、女ならなんでもいいくらいに思ってるに違いないわぁ。ほんと最低!」
「現時点で被害にあってんのはウチらだけだし、囮捜査でもやるしかなくない?現行犯逮捕するにしても」
井上は昨日も何故か自分に対して愚痴を言い通しだったのだ。それを思い出して鈴木はため息混じりになだめる。
「だから、囮捜査とか、そういう危ないことはやめろって言ってるだろ……なぁ、琥一」
「あ?……あぁ」
「どうしたの?」
返事が遅れた琥一の顔を覗き込む夏碕に、彼は「なんでもねぇ」と一言応じただけだった。
この場にいる人間には伝えていないものの、琉夏との会話で夏碕だけがターゲットであることを、ほぼ確信している。
それを伝えることのできないもどかしさと後ろめたさに、彼は苛まれていた。ただ、事実関係を知っているのが自分と琉夏である以上、何とかできるのも自分たちだけなのだという謎の使命感とプレッシャーも感じていた。
「鈴木くんも琥一くんも、私たちのこと心配してくれるのはありがたいけど……でも他の部活の子たちにまで被害がいっちゃったら、最悪だもの」
須藤が髪を指先でくるくる回しながら言うと、二人もそれに頷いた。夏碕は何かを思い出したように眉をひそめ、
「不本意だけど、新体操やってると変な目で見られちゃうことはあるし……ある意味では私たちは慣れてるほうだもんね。さすがにシャワーはないけど……」
「ま、ね。それに慣れてるのと許せるのは別問題だけ――」
「ちょっと待て。前もそういうことがあったのか?」
井上の言葉を遮って、琥一は夏碕に詰め寄った。
「え?ええと、具体的に何かあったわけじゃないけど、中等部ぐらいからかなぁ……いるよね、たまに変な人」
「うん。さすがに学校で練習してるときはないけどさ」
多目的室は校舎3階の端にあり、廊下の端からだって見える出入り口が一つしかないため、仮に内部の人間でも“のぞき”には向いていないのではないかというのが井上の弁だった。ということは、大会と合同練習(そのときだけ会場は体育館になるのだ)の写真しかなかった封筒の中身にも説明がつく。
無論、昨日突然シャワールームを覗きだした犯人の思惑は不明瞭なままだが。
「イノの言うとおりさぁ、慣れててもこんなことされていいわけないよ、なぁ琥一?」
鈴木が同意を求めると、琥一は「たりめーだ」と憤然と答える。今日一日で鈴木と琥一は、互いに随分親しくなったように思っていた。共通の敵を持つことがそうさせたのであろう。
しばし、沈黙。
「でも情報が少なすぎて、後手に回るしかなさそうねー」
須藤が不本意そうに呟いて背伸びをすると、それがお開きの合図のように各々は荷物をまとめ始めた。
確かに彼女の言うとおり、そうするしか方法はない。囮捜査でもしない限りは。

***

須藤は迎えに来た家の車で帰宅し、鈴木と井上、そして琥一と夏碕がそれぞれ連れ立って帰宅を始めた。
昨日よりも大分遅い時間になってしまい、夏碕は申し訳なさそうに琥一の手を握り返した。今日も彼女はカーディガンを羽織っている。昨日のジャージと同じ、水色の薄手のカーディガンだ。
「なんか、本当にごめん……」
「馬鹿、オマエはこれっぽっちも悪かねぇだろがよ」
「……それもそうよね、なんだってこんな目にあわなきゃいけないのかしら」
言われて憮然としているところを見ると、昨日よりはずっと元気らしい。
「でも送ってもらってるのはありがたいし、ごはん食べてく?」
背の高い琥一を見上げる夏碕の申し出は非情に魅力的だった。彼女の母親は「今時ちょっと見ない硬派な男の子よねぇ」と、琥一を非情に高く評価しているゆえ、親元を離れて暮らしている彼をことあるごとに食事にこないかと誘ったり、おすそ分けをしたりと甲斐甲斐しい。琉夏についてもいきつけの花屋の店員として気に入っているようだし、二人まとめて非情に良好な関係だ。
「……いや、今日は遠慮しておく」
この後琉夏がバイクで迎えに来る算段になっている。不審者対策の一環だ。
琥一としてはまさか陰湿な不審者に力で負ける気はさらさらないのだが、「卑怯者がどんな手を使ってくるかわからない」との琉夏の苦言を大人しく飲んで世話になることにした。真正面から来られれば相手をするが、闇討ちの相手はいくら彼でも難しい。
「そっか」
少しだけ距離を詰めた二人の目の前に、瑞野家の門扉がある。
「じゃあ、また明日――」
立ち止まって別れを告げようとした彼女は、突然琥一に抱きすくめられた。
いくら人通りがないとは言え、外でこんなことをされるのは初めてだ。当然夏碕は驚いて、琥一の腕の中でもがく。
「どっ――どうしたの?……あっ、ていうか今日はシャワー浴びてないから――」
昨日の今日だ。各部活動の女子生徒たちは今日はシャワールームを使用していない。汗拭きシートなどである程度はぬぐえたものの、どうしてもにおいが気になる。
「いいから」
というか別ににおったりはしない。いつもどおりの清涼な香りに混じって、人工的な香料のにおいがふわりと漂った。
やわらかくて、あたたかい。
華奢で繊細で、抱きしめている腕に力を込めれば折れてしまいそうで、時々怖くなる。壊してしまうのが怖い。だからいつだってそっと触れる。優しくしすぎても、きっと本当に“優しすぎる”ことは絶対にないのだろう。そう考えると、琥一は己の不甲斐無さにやるせない怒りすら感じた。
「俺が、守る」
頭の上から降ってきた言葉に、夏碕の胸は締め付けられるようだった。嬉しさと、愛おしさで。
「絶対に、オマエには指一本触れさせねぇ」
決意表明のようなセリフに胸がいっぱいになって、彼女は大きな体を抱き返した。
自分よりもずっと力強くて、不器用だけど優しい人。自分を大事にしてくれる人、大事な人。
信じている。彼はきっと、自分を全てから守ってくれる。今もそう。
「うん……」
広い胸の中に顔をうずめて、彼女は満足そうに声を震わせた。
ああ、この人は本当に、何だってしてくれる覚悟なのだ。そういう決意が、夏碕には、ひしひしと伝わったような気がした。嬉しいはずなのに、時々悲しくなることがある。
どうして誰もこの人の優しさをわかってくれないのだろう、と。彼はケンカに明け暮れる“不良”なんかじゃない。彼は守りたいだけなのに。琥一は、抱えていることを――彼は不器用で“カッコつけ”だから――言わないからわかりづらくて……それだけなのに。
切なかった。それでも、誰に何と言われても、世界で自分だけはこの人をずっと好きでいたい。自分がそういう風にいられれば、それで十分なのだと思っている。
夏碕は琥一の背中に回した手の指先に力を込めた。
「でも、危ないことはしちゃダメだから。私だって、心配」
「俺が負けるワケねぇだろ」
「そうじゃなくて……」
どうしても的外れというか、ある意味言葉どおりに受け取ってしまうらしい。夏碕はどうしたものかと言葉を探しながら、彼の胸に頬を寄せた。心臓の音が聞こえる。
「……どこにも行っちゃ、嫌。私のところにずっといて欲しいの。帰ってきて欲しいの」
随分と子供染みたことを言っている自覚はあるが、夏碕の顔の赤さはそれだけではない。そして琥一が微笑んでいるのも、彼女の珍しいほど子供っぽい言動のせいだけではない。
それが独占欲でもなんでもいい。こうして大切な存在として想われている以上、自分はそれに相応しい人間でありたい。
突然優等生になろうなんてことはこれっぽっちも考えていない。けれど、自分だって彼女のために少しでも変わることくらいはできるはずで――
(ああ、夏碕の言うとおりだ。俺はもうこの手を、大事なものを守るためだけに使いたいのか)
もう何も気にかけることなく、細くて柔らかな髪を撫で、華奢な体を抱きしめたいのだ。
夏の暑さを意に介せず、しばし抱き合ったままだった二人は、ごくごく自然に唇を重ねた。触れるだけ。彼はいつも優しすぎるほど優しく、彼女に触れる。
「……なんか、元気、出た」
「――そうか」
その言葉を聞いた琥一は今更恥ずかしそうに頬を染める夏碕の頭を撫でて、今度は額に唇を落とした。
なにやらいつもよりも甘い雰囲気の恋人に、どうしたのとは聞けず、夏碕は気恥ずかしさから逃げるように門扉に手をかけた。理由がなんであれ、“シャイ”な彼がこんなことをしてくれるのは彼女だって嬉しいのだ。
「それじゃ、ね。ありがとう」
「ああ」
恥ずかしそうに小さく手を振って玄関に入るのを見届けた後、琥一は近くのコンビニへ向かった。琉夏との待ち合わせはここで、アルバイトから上がる時間を考えれば彼がやってくるまであと10分ほどだろう。その間彼は雑誌を読むフリをしながら外の様子を窺っていた。

琉夏の推理が正しければ、犯人が今日も夏碕(と琥一)を尾行していた可能性は低くはない。一体どうやって尾行しているのかは知ったことではないが、先ほどのような場面を見せ付けられればヤツとて逆上して姿を見せるのではないかという考えもあった。
が、琥一が周りの様子を窺っていても、迎えに来た琉夏に尋ねてみても、それらしい姿はなかった。
別に尾行をしていないならそれでいい。自分の目的は犯人を突き止めて叩きのめすことではなく、夏碕の身の安全なのだから。
それに、愛しき者に触れることが、触れられることが嫌であるはずがないのだ、二人とも。
思い返せば赤面してしまうが、それだけの効果はあった。

***

翌朝。

【僕の女神に近づくな】

「わぁ……。なんか一気に余裕がなくなったカンジ?」
琥一の背後から覗き込む琉夏がどこか嬉しそうに笑いながら言うとおり、その日の朝下駄箱に入っていたのは二つ折りにされた紙だけ。中身には殴り書きのような一言があるのみで、“コレクション”はない。
何が女神だ。もとい、誰がてめぇなんかのモノだ。と憤慨しそうになって、それでは相手の思うツボだと琥一は自制する。琉夏の言うとおり、向こうは余裕がなくなって、こんなどうしようもない虚勢を張っているに違いないのだから。
「なんか、したの?」
犯人が焦っているのかどうかはまだ判断できないが、きっと何らかのプレッシャーを彼にかけることに成功したのだろう。それも、犯人が苛立つような方法で。琉夏はそう踏んでいる。
「別に?」
些か満足そうに鼻を鳴らす琥一を見て何かがピンときた。琉夏はニヤリと笑い、カマをかけてみる。
「わかった。チューしたな?」
昇降口の段差に足をかけたわけでもないのに、琥一が躓いて体勢を崩すのを見て予想は確信に変わった。まさか本当にそうだとは思っていなかったので意外と言えば意外だったのだが。
「ハァ!?おま、朝っぱらから何言って――」
耳まで赤くしていては、何の説得力もない。
「図星だ。ヒュー、熱々カップル!」
「てめ……待ちやがれルカ!!」
何事かと驚いている生徒をかきわけるようにして、二人は廊下を走り抜ける。
浮き足立った昇降口と蝉の鳴き声が、夏休みの到来を告げようとしていた。

20110411