虹のワルツ:番外 - if

I am (not) a hero. (04)

週頭に不審者が出て、今日――土曜日――までは、新体操部に対して特に目立った動きはない。
が、明日は全体練習だというのに後輩たちは皆不安がっている。それが懸念事項だ。大会前にこんなことするなんて変質者には腹が立つことこの上ない。不可抗力とか正当防衛に見せかけてどうにか痛めつけてやる手段はなかろうか。
そんなことを考えながら井上は黒い髪をシュシュで一つにまとめ、うだるような暑さの中、校舎脇を歩いていた。今日は一学期の最終日で、この大掃除を終えれば生徒は三々五々、帰路につく。夏休みの幕開けだ。
大きなごみ袋を片手で掴み、振り回している姿からは、繊細な演技を得意とするその性格は窺えない。彼女はそれを「オンオフの切り替えが上手いのだ」と嘯いている。
ふと思いついて、彼女はゴミ置き場へと向かう道すがらに、シャワールームの裏側を通ることにした。
昨日鈴木が言っていたことが気になったのだ。
『シャワールームの窓さ、ちょっと気になって確かめたけど内側から開かないんだよ』
無論それは男子用のシャワールームのことだろうが、女子用が別のつくりになっているとは思えない。ここ数日は学校のシャワーを使うことを控えているため、今日辺りにも確認してみようと思っていたのだ。内側からも、外側からも。
月曜日に鈴木がそうしたように、井上も校舎の影に入る。しかし入るや否や、慌てたような声が聞こえてきた。
「あっ、ちょ、誰か来る!」「わっ、動くなって!あぶな――」
どさり。
地面に何かが落ちてきたような音に、井上が身を硬くして目を凝らすと、
「…………何してんの」
琉夏と鈴木の二人が地べたに転がっていた。

「で?何してたの?不審者ごっこ?」
ゴミ捨てをほっぽり出しての尋問が始まった。琉夏と鈴木は慌てて、
「違う違う!俺らはアレだよ、捜査してたの!」
「そう!琉夏の言うとおりだって!言ったろ?中から開かないから、外からも確認しようって思って!」
やけに必死だが、事実彼らが取り付こうとしていたのは男子シャワールームの窓だったし、今の時間帯にシャワーを浴びている人間もいるはずがない。
鈴木が琉夏を肩車してあれやこれやと調べていたのだが井上に目撃され、動揺してバランスを崩した挙句、二人して地面に転げ落ちたのが事の顛末だったという次第。
ドジふんじゃって、と、井上は呆れながら、
「まぁ……アンタらに男子の裸見る趣味はないと思うし、」
「まったく!ないです!」
「俺も!女の子の方がイイ!!」
「人の話を聞け!」
井上は両手で軽くパンチをしたつもりだったが、運悪くそれは二人の鳩尾付近にヒットしたらしく、男二人は悶絶する。
あれっ、ちょっとやりすぎたかなと焦りつつ、回復するのを待っていると頭上から声がかけられた。
「イノちゃーん!?」
二階の窓から身を乗り出して声をかけてきたのは、美奈子だった。どうやら今の様子を偶然目撃してしまったらしく、ほうきの柄をもったまま目をまん丸に見開いている。
「あー…………でも不可抗力だしな……」
井上は軽く手を振り、肩をすくめた。

***

「もうちょっと右……あ、ストップ!」

あの後美奈子は掃除を切り上げて外まで出てきたのだった。説明を聞いた彼女は怒るでもなく、「間違えられるようなことするからいけないんでしょ」と呆れながら琉夏の髪についた砂を払っている。
琉夏の調査によると、男子シャワールームの窓はやはり外からも開かなかった。というか窓だと思っていたところは完全に嵌め込まれたただのガラス板でしかない。開ける開けない以前の問題だ。
これはおかしい。
話を聞いた井上も美奈子も同じように不信感を抱いたらしく、女子シャワールームの方も念のため確認をしたほうがいいのでは、という運びになったのだが。
「私が中から確認してくるから、二人はもう一回外から確認してよ。今度はお目付け役がいるから間違えられないっしょ?」
お目付け役の美奈子を指差しながら井上が提案すると何故だか二人はげんなりとした顔つきをしている。
「えー……俺さっきのでもう懲りた」
「俺は琉夏担いでたせいで体が痛い」
「ウソ?俺重かった?」
「イノよりは重い」
「男と比べんな!」
哀れ鈴木は後頭部を叩かれる。中々にいい音が響いて、美奈子も琉夏もひきつった笑いを浮かべた。
「あ、じゃあさ!私が見るから、琉夏くんが担いでよ!」
「え?オマエが?」
美奈子とて、人並み程度の正義感は持ち合わせている。それに何より、今回の事件で被害にあっているのは親友たちが所属する新体操部なのだ。黙って見ているだけというわけにはいかない。
「うん!だって私の身長じゃ、見えないもん」
美奈子の言葉で、その辺りに考えが及んだのだろう。琉夏は苦笑に程近い微笑みを浮かべ、彼女に背を向けた。
「そりゃそうだ。……よし、おいで」
しゃがみこんだ琉夏の肩に美奈子が乗るのを見届けず、井上は校舎へ戻るべく走り出した。ゴミ袋は置き去りのままに。
「よっ、と……。どうぞ!大丈夫だよ!」
「オッケー。んじゃ行くよ。鈴木、美奈子が落っこちそうになったら支えて?」
「ラジャー」
ゆっくりと琉夏が立ち上がると、美奈子の視点は2メートルを超え、非現実的な高さになる。思っていたよりも怖い。そろそろと移動する琉夏の頭を抱え込み、ガラス板の様子を窺うべく前方に視線を遣った。
「美奈子、どう?」
「もうちょっと右……あ、ストップ!」
「見える?」
「うん。……あ、ホントだ。これ、はめ込まれちゃってて開きそうにない。それに……」
「それに?」
ガラスの縁には塵が積もったままで、誰かが触ったような形跡もない。ガラス自体も雨風に吹き晒された汚れがついたままで、怪しい点など微塵も見当たらなかった。
もちろん言うまでもないが、このガラス越しに中の様子を窺うことなど到底不可能にしか思えない。
内部から確認した井上の報告も似たようなものだった。
これは窓ではない。光を取り込むためだけの、ただのガラスの板だ。

***

「やっぱさ、わざと怪しいことして見つかったんだ」

部活動に所属していない生徒が帰宅を始める中庭を見下ろしながら琉夏が口を開くと、その場にいた全員が息を呑んだ。
掃除時間が終わった後に教室へ移動し、昼食を食べるついでに作戦会議をしようと言ったのは井上だ。メンバーは数日前の喫茶店にいた人間に琉夏と美奈子が加わった計7人。
「それに、さっきガラスの確認してたときに気がついたけど、井上さんの足音、割と遠くからでも聞こえたし」
それを聞いた鈴木がはっとしたような顔になる。
「……そういやそうだ。あの日の俺なんて疲れてた上にスパイク履いてたから、イノよりももっと足音大きかったはずなのに」
逃げ出そうと思うならもっと早くに逃げ出せたはず。鈴木はなめられているようで、腹が立った。そこまで接近を許されておきながら捕まえることができなかった自分も不甲斐無い。
くそ、と呟きながら拳を握り締める彼を、井上がなだめる。
「じゃあ聞くけどさ、わざと見つかったとして、犯人の目的はなんなの?」
そこが最大の疑問だ。覗かれていなかったことは安堵すべきだろうが、逆に疑問点だけが宙に浮いたまま。
琉夏に聞いたところで回答が得られるとは思えないが、それでも口に出さずにはいられない。
「……プレッシャーをかける、ことかしら。私たちに」
いつになく真面目な顔の須藤に、琉夏は頷いた。
「みんなじゃなくて、夏碕ちゃんとコウに、だろうけど」
「おいルカ――」
「どういうこと?何か知ってるの?」
不安を浮かべた目で夏碕が覗きこむと、琥一と琉夏はここ数日下駄箱に入れられていた“手紙”のことを話し出した。写真については、いらぬ心配をかけるので伏せたままだが。
琥一は、琉夏に言われて捨てずに保管しておいた四枚の紙切れを並べた。支えるように、夏碕の手を握り締めながら。

水曜日が【僕の女神に近づくな】
木曜日が【もう一度警告する 僕の女神に一切関わるな】
金曜日には【彼女は僕だけのものだというのが何故わからない】
そして今日は【警告は与えた もう僕は止まらない】

「……気持ち悪っ」
美奈子も口元を両手で覆って嫌悪している。利己的な犯人の独善でしかない、歪んだ思念。
井上も須藤もひきつった顔で唾棄すべき対象を睨んでいる。
「念のため聞くけどさ、鈴木のトコにはこなかったんだよな?」
「――え?あ、ああ……こんなの届いたら、俺ならすぐに表沙汰に――……あ!ひょっとして、こないだ電話してきたのって……」
「うん。……黙ってて悪かったけど、ひょっとして夏碕ちゃんだけが狙いなのかなっていうのは、そのときから考えてた」
ゴメン。
琉夏が目蓋を伏せるのにあわせて、琥一も頭を下げた。
「騙すつもりは、なかった」
女子陣はしばし呆気に取られていたが、それは二人の隠し事ではなく、素直に頭を下げたり謝ったりする姿に、だ。
美奈子は特に驚いていた。今までこんなに素直な二人の姿を見たことがあっただろうか、と考えて、ここ最近少しずつだが変わってきた幼馴染たちのまっすぐな目を思い出す。
(そうだよね、二人とも大人になってるんだよね。きっと)
何故か目頭が熱くなるようで、彼女は顔を伏せた。その様子に気がつかない須藤と井上は、兄弟に“謝る必要などない”と慌てて告げる。
「そんな……。二人が悪いわけないじゃない……!」
「そうだよ、何言ってんの。考えがあって、やったことでしょ?夏碕だってわかってるよ、ねぇ?」
須藤と井上に促されるまでもなく、夏碕は頷いた。琥一も琉夏も自分を家まで送ってくれたり、協力して自分を守ってくれたのだ。
それに隠していたのは自分を心配させないためであって、悪意なんて微塵もあるはずがない。感謝してもしきれないのに、責めることなど思いつきもしなかった。
「でも、琉夏くん……どうしてそれを今……」
美奈子の怪訝な顔は、琉夏以外の全員の意思を代表していた。
隠し通すことだって出来たはずなのに、何故今日このタイミングで明らかにしたのか。
琉夏は頷くと、もう一度“手紙”を指し示した。

「これ、段々コイツが焦ってきてるって思わない?」
順番に並べられた紙に、全員が今一度目を通す。
「確かに……。なりふり構ってられないってカンジ?」
「今日の分とかさ、ヤバイんじゃないの……?」
琥一の眉が微かに動く。張り詰めた緊張感の中で、琉夏は意を決したように口を開いた。
「そう、多分ヤバイ。コイツはきっと近いうちに何か、やらかすに違いない」
重苦しい空気が満ちた。
ここ数日の夏碕は、登校時は父の車で、下校時は琥一か琉夏に送ってもらっている。そのおかげで不審な人物に遭遇、ということはなかったが、それは犯人にとっては苛立たしい事態だったということに等しい。
「でも、そんなことは絶対にさせない」
真剣で、力強い目だった。ふざけている姿ばかり見せる彼の、それはきっと本質だろう。彼もまた、大切な人たちを守りたいと心から思っているのだ。
「狙ってくるのは夏碕ちゃんか、それともコウか。わからないけど、一人でいるところを狙ってくると思う」
「だ、だったら琥一が瑞野さんと一緒に……」
「――いや、俺らは別々にいたほうが、フリだけでもそうしてたほうがいい。だろ?」
怯えたような鈴木の提言は、当の琥一本人に否定された。どういうことかと全員が身を乗り出す。
「コウと夏碕ちゃんが別々に、一人で行動してたとしたら、普通は夏碕ちゃんのほうを狙うだろ?」
「そ、うかもしれないけど、それじゃ危ないじゃない!そんなことしたらまるで……」
まるで襲ってくださいと言っている様なものだ。
美奈子が飲み込んだ言葉を、琉夏が引き受ける。
「これは賭けだ。犯人に、あえて夏碕ちゃんを襲わせる」
「ちょっと……」
そんな危険なことはできないと、井上が食い下がった。が、
「もちろん俺とコウが寸前で取り押さえるよ。向こうに気付かれない程度に、近くに潜んで待ち伏せる」
「でも……危ないわ」
そう言う須藤だけでなく、皆の顔色がすぐれなかった。琉夏の言うとおり“賭け”であることに代わりはないし、取り押さえると言ってもできるかどうか現時点では判断できない。
「危ないのはわかってる。でも……俺の予想だけどさ、長引けば長引くほど、アイツは無茶なことやらかす」
だからなるべくなら早くに解決したい。
そういう琉夏の考えもわからないではない。こちらとて大会を控えているのだから、心配事は早々に解決したほうがいいに決まっているのだ。そこまで理解できていても、夏碕は言葉を返せない。
自分が敢えて身を晒す、その勇気がないというのも一つの理由。けれどそれ以上に、琥一と琉夏のことが心配だった。
特に、気味の悪い手紙を受け取っていた琥一のことが。
嫌な予感がする。
自分の体を抱いた夏碕の頭を、琥一は撫でた。
「取り押さえるだけだ。殴り合いするわけじゃねぇよ」
だから、心配なのだ。
「言ったろ?俺が……あぁ、その……何とかしてやるって」
さすがにここで『守る』と言ったことを蒸し返すのは気恥ずかしいらしく、言葉を濁した琥一の顔を、夏碕はじっと見つめた。
そうだ。自分だけが辛いわけじゃない、大変なわけじゃない。胸のうちで言い聞かせて、意を決したような顔つきになる。
「……わかった。私だって、琥一くんが嫌な思いしてるんだから、ちょっとくらい頑張らなくちゃね」
手紙のことを言うと、なぜか井上が手を叩いた。
「よく言った!そーだよ夏碕、こーんな舐められて、黙ってるなんてガラじゃないからね」
女の子はたくましい。琉夏は苦笑した。
「イノちゃんはカンケーないと思いまーす」
須藤は呆れたように、それでも笑っている。美奈子は逡巡した後、
「ううん、関係あるよ!みんな大事な友達だもん、力合わせれば、絶対上手くいくよ!」
「いや、オマエは出てきちゃダメだよ!?」
美奈子までたくましい女子になってしまったらしい。慌てる琉夏が些か珍しいようで、皆が小さく笑った。
「だな。俺とルカに任せとけ」
幼馴染に止められて、美奈子は釈然としないものの考えなおしたように頷いた。琉夏は井上に向き直り、
「新体操部の女の子たちは、念のために一人では行動しないようにしててね?」
「おっけ。伝えとく」
全員の顔が、力強い連帯感に満ちていた。

「それじゃ、作戦会議だ」

***

琥一はポケットの中に手を突っ込んで、“作戦会議”を聞きながら一枚の紙を弄んでいた。
琉夏にも見せていない、つい先ほど下駄箱に入れられていた一番新しい“手紙”。

【殺してやる】

ぞっとするような憎悪の塊に、彼はある種の覚悟を決めた。

20110411