花京院千夏

 花京院千夏が五歳の冬、親しい仲であった“はとこ”が死んだ。彼はまだ、十七だった。
 いつものように朝を迎え、いつものように幼稚園で折り紙をして遊んでいたら、出勤したはずの母親がどういうわけかもう迎えに来る。何がなんだかわからないまま、少女はどこか呆けた顔をした母に手を引かれ、家に連れ戻された。母は家に着いても何も教えてくれず、ようやく口を開いたかと思えば、
「典明くんが、」
 そう言ったきり、喪服を着ようとしていた手を止めてしまう。こんな母を、千夏は見たことがなかった。
「おにいちゃん、どうしたの?」
 “おにいちゃん”と呼んで慕っていた少年に、何かよからぬことがあったのだろうということは理解できた。そして母が悲しんでいることも理解した。
「ママ」
 寝室の石油ストーブがようやく温まり始める。寒さにすら気が回らなかった、そんな顔をした母の目にはうっすらと涙がにじんでいた。
 気丈な母が泣いているのを見たのは初めてだった。
 子供心にも動揺した千夏が母親の膝のあたりに触れると、たまらずと言った様子で抱きしめられる。
 何が起こったのか、それだけでわかるはずもなかった。
 それから程なくして帰宅してきた父親と三人で向かった典明の家は、黒い服の大人たちばかりだった。千夏は制服のまま、居心地悪そうに大きな座布団に座っていた。見上げた先には典明の、白黒の写真が掛けられている。穏やかな笑顔だった。今にも優しく語り掛けてきそうなくらいに、やさしい顔をしていた。

「千夏ちゃん、はじめまして」

 今でも優しい手のひらを思い出せる。初めて会った日のことを。
 千夏の父と典明の父は、いとこ同士だった。ただの偶然か運命のいたずらか、同じ会社に同期入社した二人が打ち解けあうのに時間はかからなかった。結婚が早かったのは典明の両親のほうだった。千夏の母は出産後も仕事を続けていたので、何かあると典明の母がいつも、千夏の面倒を見てくれていた。必然、典明と千夏も親しくなる。年齢こそ十は離れていたが二人は親しかった。
 なぜならば。

「おにいちゃんのみどりいろ、とってもきれい」
「――見えるのかい? これが」
「うん」
「千夏ちゃんもこういうものを、出せるの」
「ううん」

 同じもの――スタンドを見ることのできる千夏に、典明は優しかった。本を読み聞かせてくれたり、一緒に外へ出かけたり。おそらく千夏にスタンドを見る力がなかったとしても典明は優しかったのだろう。だけど典明の優しさにはどこか果てしのない悲しみと、縋るような色が隠れていたように、今となっては千夏は思う。
 典明は多分、困惑してもいたに違いない。
 自身の分身というものが存在すること、見えること、それはよいことではないのかもしれない。この存在のために苦悩することもある。孤独を感じ、人に心配をかけることもある。さりとて“もう一人の自分”をないがしろにすることなどできない。ああ、自分の他にも同じように、これを見ることのできる友があればいいのに。そう考えると、自分は一生、“普通の”人とは誰ともわかりあえないのではないかという恐怖もあった。
 たった一人を除けば。けれど、
「千夏ちゃんが僕と同じ歳だったらよかったな」
 そうすれば、自分のこのやるせなさをもっとまっすぐぶつけられたかもしれないのに。少女は自分のよき理解者になってくれたかもしれないのに。少年はそう願うこともあった。後から考えれば欲深な自分がとても傲慢に思えたけれど、そのときの彼は本心から心許せる誰かを求めていたに違いない。
「ごめんね、おにいちゃん」
 千夏がまっすぐに見つめてそう詫びたとき、少年は己の浅慮を悔いた。
「チカ、はやくおおきくなるからね。なかないで」
 人の痛みに寄り添おうとしてくれる千夏は、たとえ十も歳が離れていたとしても、立派な理解者なのだから。
 もちろんそのとき、典明は泣いてなどいなかった。けれどそうして触れられることはとても心地よく、幸せなことだと思えた。もみじのような手のひらが頬にそっと触れる。それはとても優しい、眠りにつく前のあたたかな夜の安堵感だった。
「ううん、大丈夫だよ。僕のほうこそ、ごめん。千夏ちゃんはそのままでいいんだよ」
 千夏はそのときのことをよく覚えている。二人並んで座っていたソファの色も、窓の外がひどく吹雪いていたことも、典明の手のひらが大きかったことも、あたたかだったことも。典明はやさしい灰色のパーカーを着ていた。自分は幼稚園の制服を着ていた。紺色のブレザーに、えんじ色の細いリボンが好きだった。そんなことばかり覚えている。
 今でも思い出せる。今でも夢に見る。この先一生、この甘く苦しい痛みを抱えていくのだと思うと、独占できることが嬉しいとすら思ってしまう。
 特別なのだから。二人はこの世界でたった二人の、特別な二人なのだから。
「きっと僕らのほかには誰も、“あれ”は見えないんだ」
 だから、僕らはお互いのことを大事にしようね。

 陽炎のようにゆれる視界は、黒い服を着た大人たちばかりだ。みんな泣いている、みんな悲しんでいる。
 大切な人がいなくなってしまったから。
 もう二度と彼には会えない。
 ただそれだけのことを理解するのに、どれほどの時間を要しただろうか。
「おにいちゃん、どうしていないの?」
 線香のにおいに鼻をこすりながら、何も知らない千夏は大人たちに繰り返し尋ねる。無垢な問いかけに涙する者もあれば、黙って頭を撫でる者もあった。けれど誰も、“本当のこと”を教えてくれない。それは今も同じだ。
「おにいちゃん、どこにいっちゃったの?」
 千夏はなぜ、そして、どこでどうして花京院典明が死んだのかを、今もって知らない。

(さようなら、君を大事にすると言ったのに、約束を守れなくて、ごめん。だけど君はひとりぼっちなんかじゃないんだ。それを伝えにきたはずだったんだ。けれどこのガラスの檻は、僕に残酷な、そして僕には直接関係のない、彼女や彼の未来を見せた。不確かで、可能性でしかないこの夢を、僕は見てしまった。どうしたらいい? これは運命というものなのだろうか。こんなものに立ち向かわせろというのか。彼は強い。だけど彼女はまだ子供だ。それにもしかしたら彼だって強くはないのかもしれない。だったら僕は、導くしかないのだろう。急がなければ。僕の魂が忘れられないうちに。この、終りのない悲しみが終らないのなら、僕はせめて、抗うすべを伝えたいのだ。僕はこれから時間の流れもないガラスの中に閉じ込められる、いや、閉じこもるんだ。きっと彼女は僕を放してくれないだろう。僕がそこにいることも知らぬままに。こんなことは理に反しているんだろうか。こんなことは間違っているのだろうか。ねぇ、教えてくれないか――)

 閉じこもることを始めてから、十年の時が流れている。しかしそれは、死んでしまった少年にはもはや何の意味もなかった。
 何度も夜を巡らせたように思う。何度も季節を繰り返したように思う。それと同時に、ついさっき魂だけの存在になったようにも思う。それが、死んだ証に違いない。
 いくら傍に寄り添っていても、なんの甲斐もないことだった。生きている千夏に死んだ典明がしてやれることなど、やはり何一つとしてないのだろうか――