花京院千夏のみる夢(1)

 風が草原を揺らす。
 草のかおりはどこまでも青く、見果てぬ先の空の色と溶けるだろう。サバンナを吹き荒らすこの風は、一体どこからやってくるのか。秋の涼しさにも、春の肌寒さにも思える心地よい冷たさ。ガラスのドームになっている空の、一体どこからこんなうねりが生まれるのだろう。髪を乱されてもわたしはそこから動くことができない。箱庭の中で、わたしは一歩も動かない。
 なぜならば。
 わたしは見守っているのだから。ずっと、この風が張り裂けないように見守っているのだから。

「ああ、だめ、だめだ」

 ざくざくと地面を踏んで誰かがやってくる。振り返った先にはカボチャ頭をかぶった背の高い人間が、腕を振り振り、むやみやたらと両足を高く上げて走ってくる。
 あれはわたしの大切な人。大切な人だったはず。だけど思い出せない。どうして? こんなにずっと、待っていたのに。

 赤い髪、背の高い後姿、温かい手のひら――思い浮かぶこれが、記憶なのか幻想なのか、それすらわたしにはわからない。

 彼はハロウィーンでおなじみのジャック・オー・ランタンの被り物をして、首から下は三つ揃えの背広一そろいを纏っている。しゃんとのばした背筋はまるで俳優のようでもあるし、左足を少し後ろに引いたポーズはモデルと言ってもいいかもしれない。
 耳に心地のよい声は困惑したような響きを持っていた。
「これじゃあ、いけないな」
「どうして?」
 わたしは夢を見ている。そのことを知っている。知りながら夢を見ている。
 わたしはこの世界のことを知っている。誰かに教えてもらったから。

 誰に?

「見てごらん。僕ができるのはこのくらいのことなんだ」
 カボチャの彼は、今度は落胆と憤りを一緒くたにした声音だった。その指が示す方を、空の彼方を、見ろと言われたわたしは、けれど彼から視線を外すことなく認識を試みる。なぜって、あの空は、見上げてはいけないものだから。
 だから、音だけを聞いてみる。できないわけがない。この、夢を見せるドームはわたしの持ち物なのだから。
 わたしたちの真上を、白い何かが、何かの群れたちが、ものすごい速さで横切っていく。白い、羽のあるものたち。鳥? それとも、蝶?
 わからない。
 正体不明はぶわぶわと風に乗り、風を起こして風とともに去る。
「あれは――ここにいてはいけないものね」
 わたしはそれを見上げない。見上げずに、彼を見ている。見つめていると、ドーム越しに誰かの声が聞こえる。

「ドルニエDo26」
「いいえ違うわ。あれは爆撃機」
「ユンカース Ju シュトゥーカ」
「メロンコリーそして終りのない悲しみ」
「ドルニエは世界にたった6機」
「最も美しいものたち」
「メロンコリーそして終りのない悲しみ」
「どうしてあんなにたくさん飛んでいると思う?」
「あれがなんだかあなたは知っている」
「メロンコリーそして終りのない悲しみ」
「あなたはいつまでそれを覚えていられる?」

 最も美しいものの群れはいつまでも途切れない。いつまでもどこまでも続く白い波音は、空港の反転フラップ式案内表示機のようだ。山ほど積まれた紙の束を、下からばらばら捲る音だ。
 おんぼろ飛行機のプロペラが、一生懸命回る。ばらばら、ばらばら、そんな音を立てて世界が回っていく。アニメのように場面を変えていく。そこはわたしとわたしが生きた街。わたしと家族が暮らす街。
 そしてわたしの目はたどり着く。見たこともないのに、いつか訪れた記憶のある街。生まれ育った土地とはまったく違う風が吹き、色の違う空と海が広がる国。
 土と砂とで作られた、見たこともない異国の、それはあの人の墓なのだ。
 ああ、だけど思い出せない。思い出してはいけないのかもしれない。本当は何も知らないのかもしれない。でも、あの日誰かが囁いたのだ。残酷な、事実を。

 あの子はね、遠い異国で死んじゃったのよ。

「なぜあれがいけないものだと思う?」
「生きていないから、レプリカだから。」
 だからたくさん作られて、だからあんなに飛んでいる。まったく意味のない動き、まったく色のない体。これが嘘だと知っているのに、どこかで現実になることを恐れている。現実が襲ってくるのを恐れている。
「レプリカ。きみはあれが本物じゃないと思い込んでいる?」
 彼は、けれど不満そうだった。四つ並んだ金色のボタンの前で腕を組み、いらいらしているのか、つま先で地面をタンタンと踏み鳴らしていた。
 彼はわたしのまわりをぐるぐると囲む。
「何が真実で何が幻想であるのか。考え、受け入れることをあきらめてはいけない。なぜならばきみが生きる世界は僕が存在する空間とは異なり、こんなふうに何もかもが優しい世界ではないのだから」
 彼の声は少しだけ若々しくなった。空を仰ぐ両手は、白い手袋に覆われている。
 知っている。わたしは何かを知っている。知らなければならなかった。思い出さなければならない。
「そう、思い出さなければならない。君が、君として生きていくために」
 ひらりと、足元に何かが舞い降りた。違う。舞い降りたのではなく、落ちた。
「夢を見ることはけして悪いことではないよ。逃げ出したくなる気持ちも僕にはよくわかる。だけど、わかっているだろう? このままではいけないことくらい。もうこんなにも大きくなったのだから」
 それは脆い竹ひごと、儚い和紙で組み立てられた模型飛行機の一つ。動力になりそうなものなど何一つとしてついていない。これでは飛ぶわけが無い。
 事実として飛んでいたにも関わらず、夢の中では次々に覆される。全部が嘘で全部が本当。ここがどこだかもうわからない。
 わかるのは一つだけ。
 あの白いものたちはドームを破壊するつもりなのだ。空へ向かって爆撃して、ガラスを粉々にしてしまうつもりなのだ。そうしたらわたしは、ここから出て行かなければならない。
「いやなの」
「どこへも行きたくないのかい?」
「ずっとここにいたいの」
「しかし君には考えてもらわないといけない。ああ、でもまだ、君の意思のほうが強いみたいだ……」
 ぱたぱた、ぱた。
 白く美しかったものたちは、息絶えたように落下しはじめた。
「目を開けてごらん、世界は、怖くなんてないのだから」
 どうしてそんな悲しい声を出すの? こんな世界は止まってしまってもいいじゃない。あの人がいないのなら、何もないのといっしょじゃない。

「――それは違うんだよ、千夏ちゃん」