東方仗助

 『お一人様一つ限り』系のセールって、やっぱり何人かは何回も並ぶんじゃないだろうか。それって店側だってある程度は想定してるに違いないし、現にあの目立つショッキングピンクのポロシャツのオバチャンは、さっき店を出たと思ったらまた入ってきた。荷物はきっと車に置いてきたんだろう。涙ぐましい努力と言うべきか。いや、おれはどっちかっていうと、呆れている。オバチャン世代特有の、あのせこさに。
 おれの母親はあそこまで年増じゃあないと思うが、それでも十分にせこ……もとい、倹約家だ。『サラダ油1.5kgボトル お一人様一点限り398円』のためにおれをカメユーへわざわざつれてくるくらいには。

「ちょっと仗助! なぁにちんたらしてんのよッ!」
 気が急いているおふくろの、カリカリした声に小走りにならざるをえない。「若くてキレイなお母さん」 と、友人たちに言われることが多いけど、中身はあんなだし、おれにとっては恐怖政治の専制君主みたいなもんだ。
 正直なところ乗り気じゃない。ちんたらしたくもなるし、知り合いがいたらどうしようかと思えば足取りも重くなる。おれだって複雑なお年頃なわけだから、高校生にもなってスーパーマーケットに母親と一緒にいるとこなんか、誰かに見られたくないのだ。しかも、よりによって自分がサラダ油抱えた所帯じみたとこなんて。
「ああっ、よかった! まだ残ってたわぁ〜」
 タイムセールの張り紙と積み上げられたサラダ油のボトルの前でほっと胸をなでおろすおふくろとは正反対に、おれはげんなりするしかなかった。
「げぇ、重そう……」
「でかい図体して何言ってんのよ、ホラ持つ!」
「つーかよぉ、他にも買い物するんなら油、最後でよくねえ? 嵩張るし、持って歩くの重いだろ」
「そんなことして、なくなったらどーすんのよ」
「なくなるわけねーだろこんなに山ほど、」
「あーもう、ぶつくさ言ってないで! ほら!」
「おう!?」
 半ば投げつけるような勢いで手渡されたサラダ油合計3kgを、おれはしぶしぶ両腕に抱えなおした。大した重さじゃないが、いつもポケットにつっこんでいるものだから両腕をだらりと下に伸ばしているというのはなんだか落ち着かない。
 息子の煩悶に気づかない母親は青果コーナーへ歩き出した。おれもそれを、追いかける。足取りが重いのは物理的な理由だけじゃない。
「油ってよぉ、腐んねえの?」
「賞味期限書いてあるんじゃないの?」
 ブロッコリー、アスパラ、たけのこの水煮をひょいひょいとカゴに放り込みながらの返事に、おれは一応、ラベルを確認する。日付はおおよそ一年後。
「一年後だぜ? 使い切れるのかよ?」
「使う使う」
「ほんとかぁ?」
「……アンタ料理しないからわかんないでしょうけどねぇ? 年間どれくらいの油使うと思ってんのよ」
 そう言われると返す言葉もなかった。おれはおとなしく女王陛下の後ろに付き従い、こっそりと夕飯メニューの推理を始めることにした。できるなら今日は肉が食いたい。
 ひょいひょいと何も考えずにカゴの中に食材を放り込んでいるようにしか見えないけど、きっと何がしかの計算に基づいたピックアップなのだろう。乱雑な手つきが丁寧になったのは、たまごのパックをそっと選んだときだけだった。
 北海道産メークイン、有機大豆絹ごし豆腐二丁、特売の塩こんぶ一袋。おれにはどういう理屈で選んでいるのか見当もつかない。いや、半額シールのついたお弁当用塩サバ四切れ入りを選んだということは、おれとじいちゃんの明日の弁当のメインはこれだな、くらいはわかったけど。
「晩御飯は肉と魚、どっちがいいかしら……」
 明日の弁当が塩サバなら、晩飯は肉がいい。おふくろの独り言に心の中だけで念じ返しつつ、差し掛かったのは鮮魚コーナーのど真ん中。独特の生臭いにおいは嫌いじゃない。
「あら?」
 まるで予想外の何かを見つけたような声に、おれもつられて立ち止まる。特段珍しいものがケースの中にあるでもねえけど……。
「チカちゃん?」
 どういうわけか突然、一オクターブ高いよそ行き風味になったおふくろの声に振り返ったのは、おれと同い年くらいの女の子だった。
 綿菓子のようにふわふわとした赤みの強い髪を、耳の下あたりでふたつに結んでいる。その色も珍しいけれど、それよりも目を引いたのは、ぶかぶかの杢グレーのパーカーだった。多分、男物だろう。おれが着てやっと丁度いいくらいに違いないそれを、彼女はどういう理由でまとっているのだろう。こんなに、穴が開きそうなほど、ボロボロだっていうのに。
「あ、朋子せんせい……」
 びっくりしたような顔だった。反しておれは、別にびっくりしていない。
 というのも、中学教師をやっているおふくろと歩いていると、こんなふうに教え子や、その保護者に出くわすことは珍しくないからだ。おれが小学校の低学年のころは教え子と言えば年上でしかないものだから、無遠慮なオネエサンたちに、かわいいかわいいと囲まれたりもした。あの居心地の悪さは思い出すと毎度げんなりする。トラウマってやつ? そういう理由もあって、今でもおれはおふくろのお供をするのが苦手だ。
 とはいえ当の本人はそんなことは知ったことかと言わんばかり。
「こんにちは。お遣い?」
 すっかり教師モードで赤毛ちゃんに猫なで声をかけている。毎度のことながら、この豹変ぶりには舌を巻くほかない。
 赤毛ちゃんも、こんなところで教師に出くわすなんて災難だろう。身内の不始末で……と、申し訳なさを浮かべながら会釈してみせたものの、帰ってきたのは要領を得ないようなお辞儀だった。なんだかぼんやりしている子だな、と、おれは失礼な感想を持つ。
「何か探してるの?」
「あの……」
 赤毛ちゃんは口ごもりながら俯く。彼女の前髪は鼻にかかるほど長く、表情をすっかり隠してしまう。中々口を開かないあたり、内気な子なのだろうか。
 おれなら「とっとと言えよぉ」と、問い詰めたくなるところを、おふくろは辛抱強く、にこにこ顔をキープしたまま待っている。教師ってのはおれが思っている以上に大変なのかもしれない、と、生意気なことすらおれは考えていた。
「とびうお……」
「え?」
 小さな口から出てきた言葉に、おふくろだけではなく、おれもびっくりしてしまった。トビウオって食えたっけ?
「トビウオ? トビウオ探してんの?」
 おふくろなんか若干、素に戻っている。すると赤毛ちゃんは慌てたように口を動かす。
「あっ、あの、とびうお、ぴったりだって言われて、早いから」
 はぁ? と言いたかったが、まくしたてる彼女には追いつけそうにない。
「これなら飛べるから、多分飛行機の……あっ……」
 全く意味不明だった。意味不明な言葉の羅列は、怪訝な顔をしているおれたちのせいで止まったのだろう。一瞬ぶつかった視線、その目にはいくぶん気まずそうな色があった。赤毛ちゃんはぶかぶかのパーカーの袖で自分の顔を隠し、
「……ごめんなさい」
 と、恥ずかしそうに呟いた。正直、ちょっとかわいい。意味不明な台詞がなかったならばと思うともったいないことこの上ない。
「トビウオ……トビウオは、なかなかないわねえ……」
 そりゃどういうフォローだよ。というか、フォローなのかよ。と、つっこみたくなる間抜けな台詞だった。ともかくおふくろは間をもたせたかったのだろう。身内にしかわからないくらいのぎこちなさを微笑みの中に隠して、赤毛ちゃんを励ましていた。
「そうなんですか……」
「残念だけどねぇ……」
 トビウオが『飛ぶ』というのはともかく、『飛行機』ってのは意味がわからない。何を目的としているのかわからねえけど、ないものはしょうがない。
「せんせい、ありがとうございました」
 何がありがたいのかわからんが、ぺこりと小さなお辞儀をすると、赤毛ちゃんは何も持たずに脇をすり抜けようとする。
 おれはなんとなく、彼女の目の中に浮かぶ揺らぎが、見たこともない感情の発露が、気になった。そんな目をするとき、一体人はどんなことを感じているのだろうかと、そんな哲学的なことを思っていた。
 彼女がおれの隣を横切った一瞬に考えたことは色々あったけれど、そんなことはすぐに忘れてしまうような些細なことだった。変な子に会った。それだけで片付けられるだろう邂逅を、しかしおふくろは引き伸ばす。
「あっ、ちょ、ちょっと待って!」
「はい?」
 きょとんとした顔の彼女と、今しがた通り抜けてきた日替わり特売コーナーを交互にちらちらと伺うおふくろは、きっとその遠慮がちな声音もポーズにすぎないのだろう。言い出すだろう言葉はただ一つ、おれにだって簡単に想像がつく。 
「あのね……もし時間があったらお願いしたいことがあるんだけど……」
 おれは今度こそ、身内の恥に天井を仰いだ。

§

 結局おふくろは赤毛ちゃんをダシに、まんまと三本の油を入手することに成功した。おれは合計4.5kgのサラダ油の入ったカメユーの袋をぶら下げ、優秀な従者よろしく、夕暮れの街を二人の後ろについて歩く。
 赤毛ちゃんは、おふくろの話すくだらないことに小さくうなずいたり、あるいは小さく笑ってみたり。見ようによってはおふくろと二人、親子に見えないこともない。おれに妹でもいればこんなふうにそろって出かけたりするのだろうか。と、おれはちょっぴりおセンチなことすら考える。それもこれも四月の、あたたかいけれど妙にわびしい空気のせいだと思った。
 そういえば、おれはてっきり赤毛ちゃんを年下、それも、おふくろの教え子である現役中学生だろうと踏んでいたのだが、実際のところ彼女はおれと同い年で、学校も同じだった。よくよく見れば、ぶかぶかのパーカーの裾からぶどうヶ丘高校のセーラー服のスカートが覗いている。
「――ってなわけで、不肖のバカ息子がバカやってんじゃないかって、あたしは毎日心配なのよォ」
「そうなんですか……?」
 バカバカ連呼すんじゃねー。ってか、不肖のバカ息子って重複してんじゃねーか。頭痛が痛いと同じじゃねーか。教師として恥ずかしくねーのか。むしろ恥を知れ。あとついでにおれに対してもうちょっと配慮してくれ。彼女は同じ学校の同級生なんだから。頼むから。
 そんなことを口に出すわけでもなく、忠実なしもべは空を見上げる。サーモンピンクの夕暮れを見ていると、なんだか無性に腹が減った。
「送ってくださって、ありがとうございました」
 おふくろがたっぷりと俺をこき下ろしたあと、おれたちは信号もない小さな交差点で赤毛ちゃんを見送った。小柄な彼女の足元に、きれいなグラデーションのかかった背の高い影が伸びている。大きな分身を引き連れたまま、純和風な邸宅に入っていくその映画のような光景から、なんとなくおれもおふくろも目を離せなかった。
「変わった子だよなぁ〜」
 おれの感想にはネガティブな意味はまったく含まれていない。まぁ、多少は変人奇人なところがないとは言い切れないが、誰だって多かれ少なかれそういう面は持っているものだろう。
「そうかもね」
 珍しく遠い目をしたおふくろは、さびしそうに微笑んでいた。元担任は何かを知っているのだろう。だけどおれは、それを聞かないことにした。
「それにしても、なんであたしこんなに油買ったのかしら……」
 話変わっておふくろは、今度はおれの手提げに目を落とす。落としながら、余計なモンでも見つけたかのような声を出す。
「はぁ?」
「なんかあの場では買わなきゃいけない気がしたんだけど、別にこんなにいらないわ……」
「はぁ〜〜〜??」
 若干、いや結構イラついてしまうのもしょうがないだろう。息子はさておき他所様のお嬢さんをこき使っておいて「こんなにはいらない」なんてどういう了見だ。
「……」
 非難がましいおれの視線に、おふくろは取り繕うように笑う。顔を引き攣らせたまま。
「あっ、やだ! もォ〜〜冗談に決まってるでしょ! 今夜は揚げ物にしようと思ってたし〜!」
「トンカツな。ぜってートンカツ! ここまでこき使われてんだから譲らねーぞ」
「んもォ、わーかったわよ! じゃ商店街のお肉屋さん寄って帰るわよ」
「ロースだからな」
 はいはいと手を振るおふくろと、香ばしく揚がるだろうカツのにおいを思い浮かべることでどうにかプラマイゼロの心境に至ったおれはきびすを返す。
 赤毛ちゃんを送るために遠回りをしたからだ。見慣れない標識を何枚も追い抜いて、ようやく大通りに出てきたころ、おれは彼女の名前をすっかり失念していた。同じ学校なんだからどっかでばったり出くわすかもしれない。そしたら名前、知らなかったら悪いよな。そう思いつつも、おふくろに問うことはしなかった。
 どうしてそうしなかったのか、自分でもよくわからなかった。