空条承太郎

 かつて米軍の海兵だった友人がいうには、「海は一連なりで、しかし無限の顔を持つ」らしい。

「俺は世界中あちこちに行ったが海の色はそれぞれ違う。波の強さも違う。潮の香りも異なるし、泳いでる魚だって違うんだろうな、俺は釣ったことも食ったこともないけど。そうそう、海の色が違うから軍艦の船体色は国によって違うんだぜ? 俺らの艦は明るいグレーだけど、日本のはけっこう暗いだろう? 見たことないか?」

 残念ながらおれは軍艦あたりにゃ興味がなかったのでそれらがどんな色をしているのか、見たこともなければ知りもしなかった。おれの仏頂面に「ほんとにジョータローはそっけないやつだ」と肩をすくめる彼曰く、軍艦というものは、日本のそれは日本近海の、アメリカのそれはその近辺の海の色に合わせて船体を塗装し、上空から見た場合の、いわば保護色効果を狙っているらしい。なるほどと感心はしたが、無駄な知識を得てしまったものだと苦笑するばかりだった。

 人には限界がある。
 覚えられることには限りがあるし、できることだって同じだ。丁度その海の話を聞いたときは試験勉強の真っ只中だったように思う。おれの脳の貴重な一部分は、彼から聞いた海の話を、数年経った今でも律儀に覚えている。そのときの試験の内容はすっかり忘れてしまったにも関わらず。
 だというのに――思い出せることはたくさんある。
 誰もかれもが同じく試験中だった。目の下にクマを作った学生でごったがえすカフェテリア、埃のにおいはするのに埃一つ落ちていない図書館、バカ高い値段のくせに、甘ったるいにおいだけはタダで押し付けてくるワッフルの露店。
 くだらないことばかり、覚えている。忘れたいことばかりをいつまでも覚えているのはおれだけではないのかもしれない。

 杜王町の海もまた、どこの海とも少し違うのだろう。今のおれには、友人の言葉がよくわかるような気がした。他人の家に上がりこんだ瞬間のような不慣れなにおいを感じる、そんな違和感に似ている。
 その海を――海岸を歩く。
 波打ち際から一メートルほど陸の側を、久方ぶりに咥えた煙草をくゆらしながら往く。明け方の海は人気もまばらだが、ときおり散歩や運動や、あるいは親しい仲同士が座り込んで睦まじく囁きあっているのも見受けられた。土曜の朝をそれぞれが満喫している。
 波の音にまぎれて人の声が耳に届くのが心地よい。
 この街は、東京よりもニューヨークよりも、人の息遣いが濃いような気がした。

 杜王町を訪れた理由をいつのまにか忘れてしまいそうだった。しかし平和で、穏やかで、例えば理不尽という名の暴力とは無縁の街が、暗雲に飲み込まれているのは事実だ。
 悲しみは普遍だ。それは突然牙を剥き、惜しみなく何もかもを奪う。誰もが知っている。誰もが「突然」 に怯えながら生きている。

 叔父と呼ぶには年下すぎる少年は、祖父を亡くして悲しんでいた。

 朝日は東雲を優しく照らし、凪の海は光を散らしたように輝く。
 死は――いずれ訪れるものといえばそうなのだが、それでもあのような結末を突きつけられることは幸福であるはずもない。しかし誰もが己の結末を好き勝手に選び取ることができるなどとは、毛筋ほども思っていなかった。いないが、理解することと納得することは別だ。だから、数年ぶりの煙草を咥え、海など見に来たのだと思う。

 不意に吹き荒れた風に、咥えた煙草の先の灰が飛ばされた。目で追ったところで、もはやそのひとかけらすら把握できぬだろう。どこかに落ちて土に溶ける残滓がうらやましかった。
 ひときわ大きな波音が、一瞬遅れて名残惜しそうに耳に届く。その場に押しとどめられるように、おれはしばらく歩むことをやめた。
 旅のさなかのある日のことを思い出す。

――承太郎、きみ、海と山ならどっちが好きだい?

 十分残っている煙草をもみ消したのは、向かいから歩いていた人影との距離が縮まったためだ。少し前から彼女のことに気づいてはいたが、まだ百メートルほど離れていると思っていたうちにいつの間にかこんなにも近づいていたらしい。
 おそらく早朝の散歩だろう。少女が白黒のボーダー・コリーに引っ張られるようにしている。大きなパーカーは、まだ肌寒い朝の時間帯にはいいだろうが、季節を考えれば少し外れている感が否めない。それと対照的なショートパンツから生えたむき出しの両足が、どうにもちぐはぐな印象を与えた。
 犬は靴下を履いたような白い四肢で、飼い主は青いスニーカーで、湿った砂を蹴り上げ歩く。少女のほうは時折、スニーカーの中に入った砂粒を気にするように振り返りつつ、愛犬のリードにしがみついている。
 疑いもない平和な光景を、安息というものの具現を、おれだって好まないわけではない。今この瞬間に、この海岸で息づいている穏やかな命が、可能な限りの幸福を享受していることを、祈るでもなく祈っていた。

――海だろうな。ああ、海、だな。

 少女は立ち止まる。
 愛犬が波打ち際から何かを見つけたらしい。わざわざ咥えて主人に見せようとする彼、あるいは彼女と、わざわざしゃがみこんでそれを受け取る彼女。美しい光景なのだろう。ちらりと、ガラスの小瓶が小さな手のひらに収まるのが見えた。どこから流れてきたのか、いびつな吹きガラスの塊は傷だらけで、その一つ一つに日の光が反射していた。
 携帯灰皿を内ポケットに戻しながら、再び過去を思い出す。
 かつておれに対し海の色について講釈をたれた友人は、水中考古学を専攻していた。今はアレクサンドリア海底遺跡に赴いている彼が興奮気味に見せてくれたガラスの遺物にも、それはよく似ているようだった。
 遠い過去から流れついたものだとしたら、その中には一体何がこめられているのだろう。何かを願う祈りならば、あるいは何かを訴える呪詛であるならば、それらは人の魂とも言えないだろうか。
 少女と犬はしゃがみこんだまま、水平線を見つめていた。無造作にまとめた赤い髪が一房、風にさらわれるのをどこかで見たような気がする。あの寂しさをたたえた目も、愛犬を撫でる細い指先も。
 いつだろう。どこだろう。
 思い出そうとすると、ここがどこなのか、今という瞬間が何であるのか、わからなくなる。
 すべてをかき消すように、風は再び吹きすさぶ。
 その後に残るものはなんだろうか。せめてそれが善きものであるようにと、おれは柄にもなく願ってしまう。償いでもなければ後悔でもない。ただ、本心から湧き出た願いだ。
 波が寄せる。波はすべてを洗ってゆく。
 おれの眼前十メートルほどの距離で繰り広げられる安寧は、白い光の中でどこまでも優しかった。