花京院千夏のみる夢(3)

 真っ白い雪原に生えているのは黒い矢印だ。先端は空のほうを向いて、大きいものから小さいものまで集まって、森か林のように群生している。
 寒くは、ない。
 寒くはないから、もしかしたらここは雪原ではないのかもしれない。大きな白い紙の上をすらすらと滑りながら歩いている気持ち。でもとても冷たい。体中の熱が奪われて、矢印の指すほうへ飛び立って行ってしまうようだ。これではきっと、いけない。わたしは手のひらの中の小さなインク壺を、両手でぎゅうと包み込んだ。こんなもの、いつから持っていたのだろう。雪の中から掘り当てたような気もするし、昨日どこかで買ったのかもしれない。ともかくわたしの熱はこの中に流れ込んで、赤やオレンジのどろりになる。もっともっと回れ。もっともっとあたたまれ。分子の活動は、熱エネルギーなのだから。もっともっとはやく、もっともっと、美しく。
 フィッシュボーンのマフラーに鼻までうずめると、布団の中のように気持ちがいい。なつかしいにおい、どこかで覚えのあるにおい。

「やあ、これは随分、けっこうな品だ」

 インク壺のオレンジはカボチャ頭になり、彼になり、わたしはその快活そうな声にほっとしてしまう。これは孤独ではないことの安堵感だ。悲しいことがあっても逃げる場所があることへの幸福感なのだ。
 彼は、小瓶を撫で回すと満足そうだった。
「これなら十分、季節を巡るね」
 彼の手のひらに星が集まる。かわいい棘を生やした小さな星たちがドームの天から零れ落ち、砂時計の砂が流れ落ちるようななめらかさで集まってくる。
「季節が巡るとどうなるの?」
「季節の巡りは命の巡りだ。君も僕も、同じところをぐるぐると回っているようで、実は全く別の場所に移動している」
「別の場所?」
「そう、見てごらん。これは世界だ。もちろん、ワールドなどではない、これはユニヴァースだ」
 砂の粒たちが集まっていくつかの球を作り出す。凝縮されていく星の子供たちはそれぞれ違う色をまとい、そうしてミニチュアの太陽系が、わたしの手のひらに広がる。あたたかいオレンジの球を中心にして、青や黄色や茶色の球が、ちぐはぐなスピードでまわりをぐるぐるしている。
 わたしは知っている。この小さな球は決まった速さでオレンジのまわりを周回し、そして自分も、生けるものも死したものも、あまねくすべてが決まった速さでぐるぐる回転している。回転させられている。これは途方もなく巨大で偉大な本物を真似た偽りの模型。
「まわってる。わたしたちと同じ。毎日、こうして動いているのね」
「しかし同じ動きをしたからと言っても、また同じ場所に戻るわけではないんだ」
 砂粒の集まりはふわりと霧散した。残ったのは、不知火のようにふわふわとゆれる炎たち。
「どうして?」
「ごらん、この青い球は今ここにある。これはオレンジの周りを一周するとまた同じところに戻るだろうか?」
 青い炎はオレンジの丸い火球の周りをゆっくりと回っている。もう何度も目にしたような気がするけれど、こんな光景は初めて見た。こんな光景はきっと未来のものだ。過去から何度も繰り返された、そしてこの先もずっと続いていく、幸福の具現だから。
「戻るわ。戻らなければいけないもの」
 いつの間にか、彼はわたしの背後にいた。わたしよりも背の高い彼は、両肩の上から手を伸ばして、青い火の玉をすくい上げる。
「いいや、違うんだ。なぜならばかつてここにあった青い炎は、今ここにある青の炎よりも昔に存在していたからだ」
 青い火球は先ほどよりも少し高いところで留まった。そのわずかな高さの違いは、時間という名の隔たりに違いない。
「嘘。そんなのは屁理屈。時間は場所と違うもの」
「屁理屈なんかじゃあ、ないよ。これが少し移動すると時間も移動する。場所と時間は不可分だ。だから青い火は二度と同じ場所へは戻れない」

 もう戻れない。
 同じ場所へは戻れない。時は戻せない。そんなことは、知っていた。

「じゃあどこへ行けばいいの?」
 彼はわたしの頭を撫でる。何も受け入れたくはないわたしの駄々を慰めようとしてくれる。
「世界<ワールド>は閉じた世界だ。しかし宇宙<ユニヴァース>は回りながら上昇し続けている。らせん階段のようにね」
「登り続けたらどこへ行くの? もう二度と戻れないのに、どこへ行けばいいの?」
 後悔しない? 悲しくはない? 寂しくはない?
 わたしの手のひらは疑問符を付けた言葉をゆらゆらと吐き出し始めた。動かない口の代わりに投げかけてくれる。
「悲しいことも寂しいことも、否定してはいけないよ」
 彼はわたしの手のひらをとって、指先に唇を寄せた。
「君が悲しみ、寂しがってくれることが僕にとっての幸いだ。けれど、君が悲しみ、寂しがってばかりいることは僕の悲しみなんだ」
 星の海が見える。小さな砂の粒が、頭上から無限に降り注ぐ。埋まってしまう。雪よりも早く雨よりも重く落ちる流砂が、矢印の森を埋めていく。こうやってドームは満たされる。けれどいつかまた空っぽになることをわたしは知っている。
 でも、今この瞬間息苦しいのはいや。一人になるのもいや。
 すがるように頬を寄せてももうそこには誰もいない。まるで冷たい石の壁に張り付いているような感触しかなかった。
 まぶたを閉じると、その裏側に炎が見える。手を伸ばす。だけどわたしは知っている。あれは幻想。触れられないもの。ずっと昔になくしたもの。もう二度と、触れられないもの。
「触れなくても、いいんだよ」
 声が聞こえる。ずっと前から知っている誰かの声が。
「ほら、目覚めないと――傘はいらない。けれど安心して。君は濡れずに帰れるのだから……」