広瀬康一

 朝は晴れていたけれど、天気予報を信じて傘を持ってきてよかった。ぼくは黒いプラスチックのもち手を確かめながら、ほっと安堵していた。
 これは結果論だけど、ぼくが昇降口へ来たのが少し遅かったために下校のピークを避けられたらしい。チャイムが鳴ってすぐの時間帯は、きっと突然振り出した雨にあわてた生徒であふれていたに違いないから。そう考えると、担任からのちょっとした頼まれごともラッキーだったのかもしれないな。残念ながら雨のピークははずせなかったみたいだけど。
「康一君、」
「あれ、由花子さん?」
 背後から肩を叩かれ振り返ると、山岸由花子さんがゆったりとした笑みを浮かべていた。
「よかった、待ってたの」
 最近の由花子さんはなんというか、雰囲気がやわらかくなってすごく魅力的だと思う。笑顔にも余裕というか、ゆとりみたいなものが感じられるし、ぼくは彼女がそうやって笑っているのを見るのが、けっこう好きだったりする。
「わざわざ待っててくれたの?」
「もしかしたら康一君、傘を持ってきてないんじゃないかって」
「ああ、そうなんだ」
 ぼくは彼女の言葉に苦笑した。ちょっと前の、彼女による猛烈な(ある種、常軌を逸していた)世話焼きを思い出したのだ。今こうして思い出しても笑い飛ばせてしまうようになったのが自分でも不思議なくらいだけど、これってどういうわけなのだろう。ぼくって実は結構、図太かったりするんだろうか。仗助君たちには「康一は男のワリに細かいとこ気がつくよなぁ」と、褒められてるんだかけなされてるんだかよくわからない言葉をもらうけど。
 由花子さんもまた、少し恥ずかしそうに微笑む。
「でもちゃんと持ってきてたのね」
 まるで「疑ってしまってごめんなさい」と言いたげな視線がもどかしい。あれ、と思った。なんだか普通の女の子って感じだ。我ながら失礼な感想だけど。
 由花子さんは上品な花柄の傘を、照れくさそうに握りなおしている。たぶんお互い、「一緒に帰ろうか」と言い出しかねていたに違いない。ぼくらはしばらく雨の音を聞いていた。実際は数秒だったかもしれないけれど、不意にぶつかった視線に縫いとめられたようになってしまう。
 雨の音だけがひたすら響くコンクリートの箱の中は、少しだけ肌寒い。
 そのとき、ぺたぺたとスリッパを鳴らして一人の女子生徒が昇降口に現れた。ぼくはこれ幸いと視線をそちらに逃がしてしまったのだけど、結果その子の髪の色に目を奪われてしまった。
 奇抜な色というわけじゃない。でも、あまりお目にかかれないくらいには赤い髪だった。昔こどもミュージカルか何かで見た『赤毛のアン』を思い出させるような、赤いくせっ毛の髪。おまけにゆるめの三つ編みを二つ下げているものだから、まるっきりアンにそっくりだった。
 下駄箱から靴を取り出す横顔は、前髪で隠れて目元が見えない。小さな丸いあごは、なんだか幼い感じすらした。きっとぶかぶかのパーカーを羽織っているのが、一生懸命に見えたからだろう。
「あ……雨……」
 やっと気がついたような声。中途半端に履いた黒いスニーカー(校則違反だ)の踵をもぞもぞしながら肩を落とす彼女の手には、傘なんて影も形もありはしなかった。濡れて帰るのをただ見送るのはなんだか忍びない。それなら――
 ぼくは一歩踏み出そうとしたけれど、彼女に声をかけたのは由花子さんのほうが早かった。
「花京院さん、」
 気づいていなかったのかそれとも、気づいていたのにある意味気を遣ってくれていたのか、「花京院さん」と呼ばれた彼女はぼくらを認めて目をぱちぱちとさせている。
「山岸さん、と……」
 由花子さんと彼女は面識があるみたいだ。クラスメイトだろうか。
 花京院さんは、由花子さんからぼくに視線を流して、考えるように少し小首をかしげた。やっぱりどこか、子供っぽい気がする。
「あ、広瀬康一です」
 よろしく。こちらこそ。小声でそんなやりとりをすると、由花子さんが右手で髪の毛を左の耳にかけながら尋ねる。
「傘、持ってきていないの?」
 そのしぐさはなんだか色っぽい。少女然とした花京院さんと好対照だから、余計にそう思ったのかもしれないけれど。
「あ、うん」
 というか、なんだか姉妹のような……むしろ、近所のお姉さんと女の子って感じだ。
 由花子さんは自分の傘を、彼女の方へと差し出す。
「よかったらこの傘使って? わたしは康一君の傘で一緒に帰るから」
 そりゃ決定事項なのかい、と由花子さんを見上げてしまったけれど、特に異存があってそうしたわけじゃない。
「え、でも……」
「いいのよ。今日はちょっと冷えるし、濡れて帰っちゃ風邪をひくかもしれないわ」
 それはぼくも同意見だ。六月も半ばだと言うのに今日はずいぶん冷えていたから、クラスの女子の中には半袖の制服の上にカーディガンなんかを羽織る子もちらほら見られた。
「由花子さんの言うとおりだよ。ぼくらのことはいいからさ」
 ぼくだって、傘を貸してあげようかと申し出るつもりだったんだし。由花子さんが先に口を開いたから、そうならなかっただけだ。
「あ、ありがとう……」
 花京院さんは、はにかむように笑う。遠慮がちに傘を受け取ると、じゃあお先に、と言って雨の中へと去って行った。今度こそ、ぼくらに気を遣ってくれたのだろう。
「同じクラスの子?」
 あまりやさしいものだから、つい気になって尋ねてしまう。すると、由花子さんはふるふるとゆっくり首を横に振った。
「いいえ、中学校が同じだったの。でもそれだけで、トクベツ仲がいいってわけでもないわ」
「そうなの?」
「彼女、花京院さん、結構……大人しいから」
 あまりクラスメイトとしゃべったりはしないらしい。特にいじめられているとか、そういうことはないらしいけれど、逆に親しい誰かがいるわけでもない、とのことだった。
 だからといって高校が生活のすべてというわけではないし、もしかしたら仲のいい友達とは高校が離ればなれとか、そういうことかもしれない。
「なんだか気になる感じの人だね」
「え? ……それって、」
「あっ、いや、そういう意味じゃないよ!」
 鬼気迫る声に思わず両手をぶんぶん振ってしまう。
「なんとなく、面倒を見てあげなきゃいけないなって思っちゃう。妹がいたらこんな気持ちなのかなあ、って思って」
「……そうね、その気持ちなんとなくわかるわ」
 ぼくは秘かに胸をなでおろす。先ほど由花子さんの髪が逆立ったように見えたけれど、多分、気のせいじゃないだろう。だけどぼくは気づかないふりをする。
 花京院さんの瞳の中に、美しい憂いのようなものがあったことも、気づかないことにしている。
 一向にやまない雨の中へぼくらが足を踏み出したとき、花京院さんの姿はなかった。この冷たい雨の中を、彼女は一人で歩いているのだろうか。
 そう考えると、なぜかやるせないような気持ちでいっぱいになるのだった。