In the arms of sleep.
思い出の中で大叔父が笑っている。
若草のような香りを届ける風に前髪を弄ばれ、僕はくすぐられた鼻の頭を指先で掻いている。僕と同じような色をしたやわらかな髪の少女の、小さなつむじを見下ろしながら。年代物のレコードプレイヤーからはフルートとハープのやわらかな音色が奏でられる。名前も知らないその曲を、僕はそのとき初めて聴いたといのに、どういうわけか気に入ってしまったのだった。
――千夏は瓶を集めるのが好きだからねえ。
窓辺の飾り棚にぎっしりと並べられた小瓶の列をみつめて、優しい大叔父はゆるやかに微笑んでいる。言うとおり、形も大きさもさまざまな瓶の群れは壮観だった。
――へえ、たいした数じゃないか。これ全部、千夏ちゃんが集めたの?
――うん。
照れくさそうな少女は――無表情めいているが、ほんのり桃色に染まった頬が感情の現れであると僕は知っている――小さく頷いた。
――触ってもいいかい?
――うん。
僕はひときわ特徴的なものを手にとった。砂時計の中身を捨ててしまったような形だ。少しだけゆがんだ形には手作りのようなあたたかみがある。
――どうしたの、これ。
気になってたずねてみると、傍で見ていた大叔父も興味深そうに覗き込んでくる。
――おや、空っぽの砂時計とは珍しい。吹きガラスかね?
涙のしずくを二つつなげたようなそれを日の光にかざしてみる。大叔父もまた、僕と同じようにそれを見上げる。砂粒一つ入っていない。
――うみでみつけたの。
――海?
ズボンの裾を引かれた。千夏が、小さな手のひらを伸ばしている。返せと言いたいのだろう。
――みらいのうみ。きっと、ずっととおくから、ながれてきたの。
――遠く……?
僕が千夏に瓶を手渡すとき、時がとまったような息苦しさを感じた。僕の体が指の先から砂の粒になって崩れていく。これが幻覚なのか夢なのか、僕にはわからない。自分の形を保っていられなくなって意識を手放してしまいそうになるその直前のいっそ心地よいとすら言えるこの感覚は、ねむりに落ちる直前の甘美な苦しみによく似ていた。
フルートが笑っている。
瓶を集めるのが好きな少女は、ガラスの中に空虚の世界を夢見、いくつもの物語を紡ぐ。いつしかコレクションは両手の指で数えられなくなったが、一つとして手放すことはなかった。
本当は海で拾ったのではないと思う。そして瓶に対する執着が、このような夢の世界のドームを生んだのかもしれない。
僕はそう考える。
このドームに引きずりこまれるのと、ねむりの世界に落ちるのは同じことだ。ドームから外を見たならばねむりから目が覚めるし、目を覚ませばドームから抜け出すことができる。
どうしたら引きずり込まれるのか、その、条件?
さあ、それは僕にもわからない。何しろ彼女は今まで、ほとんど無差別に引きずり込んでは解放していたのだから。自分だったり僕だったり、他に誰かを引きずることもあるかもしれないけれど、きっと今までそんなことはなかったと思う。
僕? 僕は半分、望んでここに留まっているんだ。僕が彼女の未来に、ある種の呪いをかけてしまったようなものだからね。それに対する責任を果たすまでは、僕はここから抜け出さないよ。
こころが落ち着いたならば、きっと、ドームは消える。僕も行くべき場所へようやく旅立てる。
それは悲しいことかもしれない。けれど、それは不必要なことなんかではない。
……もう一つ、気がかりがあるんだ。彼女が狙われるかもしれない、利用されるかもしれない。あるいは僕の大事な人たちに、斃されてしまうかもしれない。
そう考えると、気が気じゃないんだ。
急がないと。
もっと、急がないと――
§
思い出の中で祖父が笑っている。
レースのカーテンが五月の風にさらわれるたび、わたしは並んだ瓶が落ちやしないかとやきもきしてしまう。
ずっと背の高い誰かが、わたしの一番のお気に入りを持ち上げる。ひっくり返し、撫で回し、やさしく笑って何か言っている。
思い出せない。
つるりと丸く磨かれたてっぺんが光る。わたしがそれに触れ、同時に彼もそれに触れたこの瞬間に、時が、とまる。
そして悲しみも止まる。水面を叩くしずくのように軽やかなハープの音だけがその場に残っている。
――ああ、びっくりした。千夏ちゃんがやったの?
――わかんない。
ねむりから覚めた彼が、祖父のいぬ間に耳打ちする。奇妙な現象に巻き込まれたというのに、どこか嬉しそうに興奮していた。
――あの中にいける、それが君の……。いや、なんでもない。その瓶は、大事な……友達?
僕と同じように。彼の大きな手がわたしの頭を撫でていく。あたたかいもの、やさしいもの。
――チカのともだちはおにいちゃんだけだよ。
わたしはずっとそう信じているのに、どうしてそんなに悲しい顔をするの?
ハープは泣いている。
優しい夢の中ではわたしは何もかもを憂う必要がなくなる。安穏とした退廃と、誰かの腕の中で眠る安らかさだけをただ感じていられる。……いられた。少し前までは。
ここ最近は不思議な夢ばかりを見る。
ただの夢ではない。これは予兆であり、現実であり、過去をさかのぼり未来を夢見るもの。すべてを知っているガラスのドームの中で、わたしはすべてを予感する。
ただし予感を外へは持っていけない。ただ漠然とした予兆の気配だけを、魂の片隅に宿して目を覚ます。
それが何を呼ぶのかわからない。だけどきっと、わからないほうがいい。わからなくてもいい。少なくともこれは悪いものではないのだから。
それを教えてくれたのは――
誰?
……もう随分前から、誰かがそこにいる。
一つ余分な魂の姿を、捉えようとするが逃げられる。
あれは誰の記憶だろうか。
決して忘れてはいけないことを、忘れてしまった罪悪感。
目を覚ます度に感じる命の終りのような焦燥。
知っていることと知らないことに対するすべての未練。
わたしはそのにおいを知っている。
かつてもっとも近しかった誰かを、思い出せない悲しさを。
――それは違うんだよ、千夏ちゃん。