岸辺露伴

 チェーン店のコーヒーなんて飲めたものではないので、杜王駅は早々にちゃんとした喫茶店をテナントに招致すべきである……と、考えつつも、二階の窓際の席は人通りを眺めるのにちょうどいいのでついつい利用してしまう。駅前ということもあって年齢性別を問わずさまざまな人が行きかうのを見るのは中々に興味深いのだ。
 こんなことを言って「人間観察ですか? ……いえ、先生らしいというか」と担当編集者に呆れられたのは確かだが、誰も公言しないだけで、大なり小なり人を観察する趣味は持っている(持っていないにしても観察しないことはない)と、ぼくは信じている。
 冷房の効きすぎた店内で、熱いアメリカンを飲んでいると季節すら忘れそうだ。眼下を行きかう人々が半袖だったりノースリーブだったりしなければ、初夏のころだとは思わないだろう。
 そうこうしているうちに担当編集者の西谷君がやってきた。丁寧にアイロンのかけられた大判のハンカチで汗を拭きつつ、黒い鞄を携えて。
「あれ、先生、お待たせしてすみません。お早いですね」
「まぁね」
「原稿の進み具合、その分だと予定以上だったりします?」
 するわけないだろう。ぼくは自分のペースを毎日守って生きてるんだ。何の必要もないのにペースを上げたりするものか。
 と、言いたかったのだが、予定よりも少し早く仕上がったのは事実だった。
「まぁね……」
 筆が乗る、というやつだろうか。いつも楽しんで描いているつもりだし、いつだって筆が乗っているつもりではあったけれど、そのいつもよりも数段早く仕上げてしまった。こうなると認識を改めるべきなのかもしれない。ぼくにもペースにムラができることもあると。
 まあ、それはそれ、だ。
 ふと窓の外に顔を向けると、ロータリーに黒い車が入ってくるところだった。
「ところで、先日おっしゃってた郷土史の件ですけど」
 西谷君は鞄から取り出した書類をぺらぺらめくりつつ、違う話の口火を切る。爽やかな好青年という形容が良く似合う彼の腕は、時計の部分を残してきれいに日焼けしていた。
「何かわかったのかい」
「先生、花京院先生ってご存知ですか?」
「花京院……どこかで聞いた名だな」
 黒い車は駅南口の真ん中で停車した。
「T大学の文学部で教鞭をとられてたんですけど、あ、まだとられてるんですけどね、今度定年で退官されるので、最終講義が月末に」
「へぇ……。ああ、もしかしてその教授、前にテレビ番組の――」
 ぼくがローカルテレビ局で放送されていた番組名を述べると、彼は手を叩いて嬉しそうに肯定した。
 なるほど、それは中々興味深い。ぼくはあの番組のせいで郷土史に興味を持ったようなものだから、願ったり叶ったりだ。
 眼下のロータリーでは、黒い車からかっちりと黒いスーツを着こなした男が出てくる。夏だと言うのにご苦労なことだ。
「実はぼく、教え子だったんですよね」
 照れくさそうに頭を掻く彼の言葉は意外だった。
「へぇ? なんでまた編集なんかになったんだい?」
 意外だったので思わず、ロータリーに向けていた視線を西谷君に戻してしまう。彼はぼくが突然顔を向けたことに驚いたのだろうか、一瞬目を丸くして、そのあと苦笑した。
「あはは……ぼくも考古学やってたんですけどね、ほんとに好きだったんですけど、それじゃ食べていけないんですよ」
 気まずいのか気恥ずかしいのか知らないが、西谷君が視線を地上に落とすのでぼくもなんとなく同じようにしてしまう。
 おや、と思った。彼に対してではない。眼下のロータリーに停まった車から黒服に支えられるようにして車から出てきたのが、ジョセフ・ジョースター氏だったからだ。
「ふぅん。なんだかヒッジョーに現実的な理由なんだな。大学に残るのも考えなかったのかい?」
「それだってポストには限りがあります。同級生もほとんど民間に就職するか公務員か、です。同じゼミでは友人が一人だけ、学芸員になるって、今もがんばってますけどね。狭き門です」
「ふぅん……」
 ぼくらは二人とも窓の外を眺めていたけれど、お互いに見ているものは違うだろう。
 ぼくは好奇心から老ジョースター氏を見ているし、西谷君は二度と返らぬ過去、あるいは、手放してしまった未来の可能性を見ているのかもしれなかった。
 ジョースター氏はロータリーを歩んでいる。杖をつきながら進む老人は、これまでにどのくらいのものを見てきたのだろうか。どれだけのものを諦め、捨ててきたのだろうか。
 と、彼は何かに躓き、転びそうになった。それを、彼とすれ違うところだった少女がとっさに支える。つばの広い麦わら帽子からちらりと見え隠れする赤いものは、リボンだろうか。うす水色のワンピースには似合わないんじゃあないかと余計な心配をしてしまいそうになる。
 ともかく、ジョースター氏が転びそうになって、ぼくは自分のことでもないのにひやりとしてしまった。頬杖をついていた腕を思わず浮かせてしまった自分がなんだか恥ずかしくなって、ぼくはごまかすようにぬるくなったカップの中身をあおる。西谷君はぼくの様子に気づかない。
「でも今の仕事、すごく楽しいです」
 彼の声は取り繕うような響きではなかった。単純なようで複雑かもしれないけれど、やっぱり単純に違いない彼は、ぼくから見てもかなり前向きに仕事に取り組んでいるように思える。
「そりゃ、結構なことじゃないか」
「ええ! 先生の作品は学生時代から読んでますから!」
 そういや彼、新入社員だったっけ。ぼくはぼんやりした記憶を引っ張り出す。
 すでにジョースター氏も、彼が頭を下げていた少女も、ロータリーから姿を消していた。
「……そう言ってもらえると光栄だよ」
「ぼくも先生のお手伝いができて、本当に毎日充実しています」
 おべっかや社交辞令でないのは“読ま”なくてもよくわかった。それに、彼が自己欺瞞のためにそんなことを言ったのではないということも。
 何かを諦めながら人は生きるのだろうか。
 いつかぼくにも、絶対に譲れないものを手放さなければならない日がくるのだろうか。
 紙の山をめくる彼の指先は、もう何者にも乱されない信念を持っているようだった。
 何故か今のぼくには、それが少しだけうらやましかった。

§

「どうしたの? 露伴ちゃん」
 それはこっちが知りたかった。なんだってぼくは、オーソンの隣のこの小道を訪れたんだろうか。
「別に、どうもしないさ」
「ふぅん?」
 見上げた先の杉本鈴美の頬は、夏の空が透けて見えそうなくらいに白かった。日焼けなんてものは幽霊の彼女には関係ない。なのにぼくは、日傘のひとつくらい差しちゃどうなんだと言いたくて口を開きそうになる。
「変な露伴ちゃん」
 ああ、そうだろうとも。変なのはわかっている。
 くすくすと笑う彼女はいつまでも少女のままだ。いつになっても、十六歳のまま、変わらない。
 ぼくは二十歳になった。気づかぬまま、彼女が死んだ歳を追い抜いた。
「いい加減そう呼ぶのはやめてくれないか」
 本気で嫌がっているわけじゃないのはぼく自身がわかっている。こんなことくらい言っていないと間が持たない。けれどこのときはなぜか、一抹の罪悪感のようなものが胸の中に落ちてきたように思える。
「いいじゃない。歳をとることはなくなっても、あたしにとって露伴ちゃんはずぅーーっと露伴ちゃんだもの」
 杉本鈴美は目を細めた。もしもこのまま、この小道に居座るのだとしたら、ぼくがどれだけ歳をとっても、彼女は姉気取りでこんなことを言い続けるんだろうか。
 不自然だろう、そんなの。だって死んでいるんだから、幽霊なんだから。
 ぼくはひどくやりきれない気持ちになった。それすらお見通しなのか、杉本鈴美は空を見上げる。いつかあの向こう側へ行く日を思っているのか、ぼくにはわからない。
 本当はあの日を境に二度と言葉を交わすこともなくなってしまったはずのぼくらの関係は、ひどくいびつなもののように思えた。
「そういうものよ。あたしたちにとっては」
「“たち”?」
「そう、彼もきっと同じ……」
 彼?
「何を言ってるのかわからないな……」
「女の子には秘密が多いのよ」
「よく言うよ」
 正直悔しいけれど、こんな会話が嫌いなわけじゃなかった。死んでしまった人間との会話というのはとても奇妙なことだ。ありとあらゆるものから逸脱したこの風景を、ぼくはあと何度、見ることができるのだろう。もし彼女が改めてぼくの前から消えてしまうとしたら……。
 不自然だなんだと言っておきながら、ぼくはアスファルトの地面を睨む。ああ、なんだってこう、今日という日は何もかもがじれったいのだろう。
 杉本鈴美は何も知らない。本当は何もかも知っているのかもしれないが、ぼくには彼女が何も知らぬ無垢のままのように思えた。
 少女はぐいと伸びをして、振り返る。その一瞬、ぼくの胸に湧き上がった思いはたった一つだった。
 もしも彼女が本当にぼくの前から姿を消すのならば、そのときが来てしまったならば、今度こそぼくはきちんと、彼女を見送らなければならないと。
「ふふ。それじゃああたし、遊びに行ってこようかしら」
 遊びに? どこへ?
 アーノルドの頭を指でかいてやりながら、ぼくの心情など知る由もない少女はにこりと微笑んだ。

「ちょっとだけ、夢の世界にね」