花京院千夏のみる夢(4)

「ここはとても素敵な場所ね」

 知らない人が自分の部屋にいたら、どうする?
 大人が教えてくれることは、大体「あるかもしれないこと」。だから、知らない人がドアや窓をこじ開けて入ってきそうなときには逃げろって言うんだろうし、知らない人に捕まえられそうになったら、声を上げて助けを呼びなさいって言うんだと思う。
 でも、全然気づかないうちに知らない人が入り込んできたのだとしたら、わたしは一体どうしたらいいんだろう。
 そんなことは到底ありそうなことではないから、誰も教えてくれなかった。
 ここは本当はわたしだけの場所じゃないのかもしれない。
 だけど誰かは教えてくれた。
 ここはわたしの領域だけど、誰かを招くこともできるのだと。

 ミルクティーみたいな色の髪に、ピンクのカチューシャがよく似合っている。わたしとそう変わらない歳に見える女の子が、ドームの中に立っていた。いつの間にか。
「安心して。あなたに嫌な思いをさせにきたんじゃないの」
 彼女はゆっくりと口を開いた。形のいい唇が動くたびに、カチューシャから零れ落ちた髪の毛先が揺れる。まるで風を吹かせているように。
「あなたはだれ? どうしてここにいるの?」
「さあ……なぜかしら。だけど、あたし一人ではここには入れなかったわ」
「じゃあ、わたしがあなたを連れて来たの?」
 少女は少し意外そうに眼を丸くする。
「……あなた、知らないのね。気づいていないのかしら、それとも忘れた? 思い出せないだけ?」
 そう、わたしは認識できない。ここにはまだ、わたし以外の何かがいるのに、わたしには何もわからない。考えて考えて、答えを見つけようとするけれど、掴めそうだと思った次の瞬間に、それは跡形もなく消え去ってしまう。
 赤い花びらを追いかけている。夢の中で夢を見続けている感覚。どう言葉にしたらいいのかわからない焦燥感。
 それが申し訳なくて情けなくて、俯いてしまった。見つめた先に、彼女のスカートのすそが風になびいている。
「わからない。どうして何も考えることができないのか、それもわからない」
「そう。まぁ、いいじゃない。お茶にしましょうよ」
 そう言うと、彼女はテーブル(いつの間に拵えたんだろう)の上から大きなティーポットを持ち上げる。数十人分は入っていそうな大きさのそれを、細い腕が軽々と持ち上げる。
 わたしはソファに腰掛けていた。いつからそうしていたのか思い出せないくらい自然に、やわらかいソファに埋もれるようにして座っていた。
 黒いカフスを付けた少女の腕はティーカップを差出し、ずいぶんと高いところから滝のように流れる紅茶を、曲芸のように受け止める。
 彼女は考え込むように首を傾げた。
「アリスはうさぎを追いかけて迷い込んでしまったけれど、それはいいことだったかしら?」
 ポットを持っている白いカフスを付けた腕が、そんなことを言う。
「それとも悪いことだったかしら?」
 黒いカフスの彼女も惑わすようなことを口にする。白と黒のカフスの持ち主は、二人ともさっきの少女と同じ顔をしていた。違う、そうじゃない。彼女は白と黒の彼女“たち”に別れてしまったのだ。
「あら、あたしたち」
「二人になれるのね」
 黒と白の二人に分裂した彼女は、そうなったことすら楽しそうにくすくすと笑う。
「どう思う?」
「それはいいこと? 悪いこと?」
 さっきの質問を、しつこく繰り返す。
「そんなことはアリスにしかわからない」
 どうしてわたしは、わたしの夢の中でこんなふうに言われなくてはいけないんだろう。
 なんだか理不尽だと思った。自分の夢をめちゃくちゃにされているような気持だった。
「そうね」
「アリスならそう言うわね」
 カチューシャから生えたうさぎの耳をふわふわと揺らしながら彼女たちは頬杖をつき、足をふらふらとさせる。気だるい午後のお茶会だ。
「でもあなたの考えが知りたいの」
「うさぎを追いかけたのはいけないことだったと思う?」
「それとも、冒険の旅はすばらしいものだった?」
 それって今答えなければいけないことかしら。
 問い詰められているような居心地の悪さに視線を泳がせると、わたしの向かいにエナメル靴のつま先が見えた。わたし、知っている。この人は――
 なのに、顔を上げた先には誰もいない。でも、確かにそこには誰かがいた。三つ揃えを着た、背の高い誰かが脚を組んでいたのに。
「どうしたの?」
「どうしたの?」
 白黒の彼女たちの顔は、今度こそ本物のうさぎになってしまっていた。顔だけが写実的な、うさぎ。
「アリス、今度はあなたが冒険に出なければいけないかもしれない」
「だけどあなたは旅にでなくてもいい。出るのは自由だけれど、出ないのも自由よ」
「大丈夫よ、怖がらないで」
 怯えてなんかいないのに、少女の声が背後から降ってくる。やわらかい雨に打たれるように、わたしは背中のほうから差し出された、二本の腕に抱きしめられた。
「わたしがここに隠してあげるわ。生きている体を持っていないわたしなら、それができる。だからあなたは安心して眠っていいの」
「わたしの名前は杉本鈴美。あなたの大事な人に呼ばれたの」
 うさぎは、もういない。そのかわり、わたしがうさぎになってしまった。
 少女の腕の中に抱えられ、ゆっくりと背中をなでられる。
「だいじょうぶ」
「だってあの人も、守ってくれているもの。見守っていてくれるもの」
 うさぎになってしまったわたしは、もう言葉をしゃべることもできなかった。
 すんすんと鼻を鳴らしながら、わたしは「杉本鈴美」に訪ねる。

「それって、誰のことなの?」