Crepuscule



14

「グラタンにしよう!」

大量のチーズをさばくためにジェーンが思いついたメニューは、月並みかもしれないがグラタンだった。牛乳もあるし、具材になりそうなものも揃っている。タマネギ、キノコ、鶏肉……。次々に冷蔵庫から食材を取り出しながらジェーンは窓の外を眺めた。
嫌なことを思い出す。
一年前のあの日から、ジェーンは雨が苦手だった。

半ば追い出されるように出てきた生家。持ち出すことの出来たのは財布だけ。いつも首から提げていた、母親ゆずりのペンダントは増水した川に投げ捨てた。すがりつける唯一の存在だった当事の恋人の家に転がり込んだ。身一つでも迎えてくれた、優しかった彼は、共に過ごしているうちに態度を変えていった。ジェーンは食事も作ったし、生活費も出した。そんな毎日がおかしいのかも知れないとは理解していたけれど、今の自分が文句を言えるはずもなかった。まるで賃金なしの家政婦で、いや、家政婦ならまだ良かった。
そうして二ヶ月が過ぎようとしていたある日、玄関に見覚えの無い白のハイヒールを見つけて、気がついたら部屋の中に上がりこんで、口論になった。自分が、彼の恋人だと思っていたのに。

『なんでお前がここに来るんだよ。……出てってくれ』

その後は、頭が真っ白になって、自分が何をしたか覚えていない。あの時と同じ激しい雨の夜だった。そして小さな傘だけ掴んで、何もかもどうでもよくなって、宵闇に包まれる街を一人でさまよっていた。友人がいなかったわけではないけれど、その時ジェーンはなぜか行き先もわからない快速の列車に乗り込んでいた。終点である大きな駅で降りて、そこが大きな都市であることに初めて気がついた。
見知らぬ街。心細さと情けなさで涙が止まらなかった。行く場所もなくトボトボ歩くその姿は街を歩く人たちの視線を集めていた。それもどうでもよかった。皆、好奇の目を向けるだけで誰も自分に救いの手を差し伸べてくれないと理解した。
雨の中、しかももう夜も遅くなってきているのに女一人で泣きながら歩いているのだ。しかも着のみ着のまま持ち物もない。上着さえ羽織らず、低い気温の中歩くのはもう堪えられなかった。さすがに大通りでしゃがみこむわけにはいかないので、路地へとジェーンは足を向けた。

あのペンダントと運命を共にしてもよかったかな、

そんなことを考えていると、一軒の店から大柄な女性が傘もささずに飛び出してきた。
なんなのだろうと思っていると、その女性は自分の方を見ている。いや、自分のところへ走り寄っているのだ。

『ちょっと、どうしたのよアンタ?』

彼女は驚いて言葉も発することのできないジェーンに近づくや否や片手を掴んで歩き出した。

『こんなに冷たくなって……』

引きずられるように歩くジェーンも、見知らぬ女性の手が暖かいことに驚いた。というより、自分がそんなに冷えていることに驚いた。暖かい掌には、むしろ安心して涙がまた溢れてきた。
そのまま店の中に入れられて、暖かいスープを飲むとジェーンも落ち着いてきた。激しい雨の所為か、客は中年の男性一人だけだったが、それが逆にありがたかった。

『落ち着いた?』
『はい……あの、ありがとうございます』
『アタシはモーラ。……他人の事情に首を突っ込むのは悪い癖だってわかってんだけど、みてらんなくてね。なんでこんなとこ、一人で……』

ジェーンはスープのカップを両手で抱え、ポツリポツリと話し始めた。誰かに聞いて欲しかったのだろうか。話しながら、改めて辛さがこみ上げてくる。カウンターの中のモーラも、同じカウンターに座る男性も相槌すら打たずにジェーンの話に耳を傾けていた。店内に流れるジャズの調べと降り注ぐ雨の音がひたすら悲しかった。

全てを話し終わると、モーラは深くため息をついた。カウンターの男性は煙草を咥えて壁の時計の秒針を眺めている。
店を出ようとしたジェーンが涙を拭いながら立ち上がろうとするのを、モーラは手で制した。

『……いくとこが無いんなら、ウチで働かない?』
『……え?』
『こないだまで勤めてたバイトの子がやめちゃって困ってたのよ。住むところならアタシの家にしばらく居ればいいじゃない』
『でも……』
『甘えときな。モーラはこう見えて頼りになると思うぜ』

それまで一言もしゃべらなかった男性が、煙草を灰皿に押し付けながら会話に割り込んできた。

『こう見えて、ってどういう意味よ』
『そのまんまさ。……嬢ちゃん、今ここでお前さんを見捨てるようになっちゃ俺達も後々寝覚めが悪い』
『バニングさんの言うとおりよ』

うって変わって真剣な口調で告げられ、ジェーンも腹を決めた。すでに行くあてはないし、自分がこれから何をしようと口出しも心配もする人間はいない。

『じゃあ……よろしくお願いします』

表情を引き締めてジェーンはモーラに告げた。どこかほっとした顔を見せたモーラは暖かいコーヒーを淹れてくれた。バニングと呼ばれた男性も新しい煙草に火を点ける様子がどこか穏やかだった。

『そういえばまだ名前も聞いてなかったわね』
『あ、ジェーンです。ジェーンバーキン
『これからよろしくね、ジェーン





過去を思いだしているうちに、グラタンは焼き上げるのみというところまで完成した。焼き立てを食べて欲しいけれど、ガトーはまだ部屋から出てこない。防音室だから何も聞こえず、余計に入りづらい。
モーラと何を話していたのだろう。野菜スープを作りながらジェーンは不安に駆られた。止まない雨が余計に不安を煽る。
その時、ダイニングテーブルに置いていた携帯電話が鳴った。急いで手を拭いて、ディスプレイを見てみるとモーラからのメールだった。

『明日は何時もどおりに11時に来てね』

モーラのメールはいつも最低限の情報しか入っていない、そっけないものだ。けれど、その本人は優しくて暖かい人物で……

「ありがとう、モーラ」

ジェーンは微笑を浮かべて呟いた。あの日、彼女に拾ってもらえなかったら今頃自分はどうなっていただろうかと、考えてもしょうがないことを思ってしまう。
返信を打って、携帯電話をテーブルに置こうとしたジェーンは右足を椅子の足に勢いよくぶつけた。ぶつけたというよりも足で椅子を蹴飛ばしてしまった。ぶつけた足も痛いけれど、椅子の上においていた本が音を立てて床に散らばってしまった。下の階の住人に謝罪しながら(もちろんそれは伝わるはずもないが)しゃがみこんで本を拾おうとしたジェーンの目に、“それ”は容赦ない現実をぶつけた。
『ロミオとジュリエット』のページの間から一枚の写真が見えていた。見覚えのある銀髪は、おそらくこの本の持ち主であるガトーだということは容易に想像できる。

躊躇いながら、また、加速する鼓動を感じながら、それでもジェーンはページの間から“それ”を引き抜いた。

「わ……美人…………」

思ったままの感想が口をついた。
交通事故にあった友人が、『案外そうなってみると逆に冷静なものよ』と笑いながら話してくれたことをふと思い出した。車にはねられながらも彼女は救急車を自分の携帯電話で呼んだらしい。聞いた当時は、まさか、と思っていた。けれど、そんなもんなんだな。ジェーンは自分の言葉を嗤った。

綺麗なブロンド、幸せそうな笑顔。背景は……どこかのオフィスだろうか、机がいくつも並んでいる。そこにガトーと一人の女性が写っていた。きっと誰かに無理矢理撮られたものだろう、少なくともガトーは。

「(……ううん、違う。私がそう思いたいだけね)」

ガトーは笑顔ではないにしろ心底嫌がっているようには見えない。ため息を一つ吐いて、ジェーンは本の中に“それ”を戻した。今更、ぶつけた足が痛んでくる。

昔の恋人とやらの写真なのだろう。話を聞いているのに、昔なのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。
きっと普段読まない本だから、こんなところに挟んでるの忘れてたんだよね?
それとも、この本はその人がよく読んでたの?
それを私に貸してくれたの?

椅子の上に積み重ねた本を置きながら、ジェーンは自分の理不尽な感情に流されそうになっていた。これが、なんとも思わない人だったら、これほどまでに心を痛めることなんてないのに。どうしてこんなやり場のない想いが生まれるのだろう。
ジェーンはシンクに向かい、タマネギをスライスした。
涙が出た。今、ガトーが部屋から出てきたら、少しは心配してくれるだろうか。

鍋を火にかけて、スープの具を全部放り込んだ。憮然として中身をかき混ぜて、コンソメを加えた。味なんてもうどうでもよかった。
堪えられなくなって、ジェーンは火を止めて、寝室へ駆け込んだ。鍵をかけるのを忘れずに。


ベッドにうつぶせて、どれくらい悶々としていただろうか。考えれば考えるほど悪いことしか思い浮かばない。
突然、ドアノブがガチャガチャと音を立てた。ビクッと体を震わせたジェーンに、ガトーが声をかける。

ジェーン?」

鍵をかけていることを理解したのか、ガトーは呼びかけながらノックを繰り返す。けれど、ジェーンはそれに対して何の反応も示さず、再び頭を枕に沈み込ませた。自分が、拗ねている子供と同じことはわかっている。わかっているけど、今ガトーと話をしても理不尽な怒りのような感情をぶつけることしか出来ないだろうことも、自分が一番よくわかっている。

「(ほんとは……ぶつけるんじゃなくて、ぶつかってきてほしいのに……)」

予想通りにガトーはドアから遠ざかっていったようだった。沈黙に対しても理不尽すぎる感情を覚えてしまう。
ジェーンは八つ当たりに右手で大きな枕を叩いた。鈍い音がする。

本当は、もっと私のこと見て欲しいのに。
私だけ見ていて欲しいなんて、我侭ですか?

「……ばか…………」

ぶつけた右足はまだ痛みを訴えていた。


無理矢理眠ったジェーンが目を覚ましたのは朝の6時だった。まだお店に行くには時間がありすぎるし、かと言ってこれ以上眠れそうにもない。昨夜から何も食べていないためすさまじい空腹感に見舞われたが、ガトーの寝ているリビングにつながるダイニングへ行く気にはなれなかった。気まずいのだ。
仕方なく、運び込んでおいたモーラとキースからのお土産の紙袋を漁ってチョコレートを食べた。寝起きの口が余計に水分を欲しがるので、一つ食べただけでやめた。虚しかった。

しばらくして、リビングから物音がしだした。ガトーが目を覚まして支度しているのだろう。いや、ジョギングに行こうとしているだけか。
程なくして玄関が開く音、その後には、静寂。
ジェーンはそろそろと寝室のドアを開けた。誰もいなかった。
まるで悪いことをしたかのようにコソコソと冷蔵庫まで歩いて、ミネラルウォーターのボトルと何か食べ物を探した。自分が昨夜作ったグラタンが一つ、ラップをかけられて冷蔵庫に入れられていた。15分もすればガトーは帰ってくる。焦りながら他に何かないかジェーンは視線をさまよわせた。けれど出来合いのものなど何もなく、ヨーグルトを1パックとスプーンを持って寝室へ引き返した。
ベッドに腰掛けて、喉を鳴らしてミネラルウォーターを飲んだ。

「(フルーツ缶でもかっとけばよかった)」

味気ないプレーンヨーグルトはそのままではすっぱかった。けれど他にできることもない。今自分はこれ以外に食べるものがないのだ。

無力で、情けないと思う。結局制限された状況の中で足掻くしかないのだろうか。そんな毎日が続くのだろうか。銀色のスプーンが突き刺さる白いヨーグルトの表面を、ジェーンはただ諦めの浮かぶ瞳で見つめていた。

20080403