「……き・・て……起きてー!」
誰かが起こす声で、ガトーは目覚めた。日差しがまぶしいのが、目を閉じていてもわかる。まだ眠っていたい……そう思って寝返りを打つと、彼を起こそうとしていた声の主がため息をつくのが聴こえた。
「ガトーさん!仕事!行かなくていいの?」
女の声だった。仕事……今日は有給休暇で休みだったな、だからまだ寝かせてくれ。そう言おうとしたところで、ガトーはふと気づく。
何故一人暮らしの自分を起こす人物が居るのだろう?
一気に目が覚めて、彼は上半身をがばっと起こした。髪はボサボサで、スーツは着たまま、コンタクトレンズを入れっぱなしで寝たのか目がやたらゴロゴロする。そんなことはどうでもいい。問題なのは、昨日の記憶もほとんどなければ、目の前になじみのカフェの店員がいるのにも思い当たる理由がないということだ。
「あ、起きたね。仕事は?」
「ジェーン?痛……」
慌てて起きた所為か、頭痛がガトーを襲った。右手を額に当てる様をジェーンがまたため息をつきながら見ているのが感じられる。
「二日酔いだね。あれだけワイン飲めばそうもなるよ」
二日酔い……そういえば昨日は飲んでいたっけ……。だんだんと記憶が戻ってくる。ベッドや部屋を見回したが、そこは確かに彼の家だった。朝になってから時間が経っているのか、もはや朝日と呼べない太陽の光が部屋中に満ちている。
コーヒー飲む?とジェーンが聞いてくるので飲みたい意思を伝えた。そうだ、なぜジェーンがいるのだ。タクシーに乗ったことは断片的に覚えているが、送ってもらったのだろうか。スーツを着たまま寝てしまったようだから、まさか彼女に狼藉を働いたとは思えないが……自分の記憶のあやふやさで不安になってくる。
「はい。コーヒーメーカー使わせてもらったよ。で、仕事は?行かなくていいの?」
目の前に差し出されたマグカップを無言で受け取った。仕事……仕事は休みだ。そう告げるとジェーンは、そう、と言って自分もマグカップを口にした。ガトーも同じように熱いコーヒーを一口飲んだ。美味い。カフェでアルバイトしていると同じコーヒーメーカーでもこれほどまでに違いが出るものだろうか。
「ところで、なんでジェーンまで私の家にいるんだ?」
返答によっては記憶にないことも言われるかもしれないが、敢えてガトーは尋ねた。するとジェーンが難しそうな困ったような顔をして見せたので、これはことによると本当に不味いことをしてしまったのかもしれない……そう思っていると、ジェーンが口を開いた。
「話せば長くなるんだけど……」
要約するとこんな感じだった。
まず、昨夜鍵を店に忘れたことに気づいたジェーンは疲れていたし、ガトーのことも気にかかるので朝が来るのを彼の部屋で待つことにした。しかし彼女が目を覚ます前に店長のモーラからかかってきた電話に、彼女は最初の衝撃を受けた。なんと今日の明け方、ジェーンの住むアパルトマンが火災で全焼してしまったと告げられた。
「慌ててテレビつけてみたらほんとに燃えてんの。まあおんぼろアパルトマンだからしょうがないけどね」
自らを励ますように、大袈裟な身振り手振りを交えて説明している。なんだかジェーンが痛々しかった。
「画材も絵も全部、焼けちゃったみたいだし……」
その一言だけは本心から残念そうに聞こえた。
「そうか……。これからどうするんだ?」
「それなのよ!」
いきなり大声を出してソファーから飛び上がったジェーンに、ガトーは驚いて体を震わせた。手元のマグカップの液面が揺れている。
「モーラのところに転がり込もうかと思ったけど、なんとあの人今日からキースと一週間の旅行に行ってくるらしいし……」
「キース?」
「彼氏よ、彼氏」
ジェーンは話を遮られて、ちょっとめんどくさそうに説明をした。落ち着きなくうろうろと歩き回りながら話を続けるので、ガトーは床にコーヒーを零しやしないかと心配した。どうやら第二の衝撃と言うのは、頼れるモーラが居なくなってしまったことらしい。
「電話かけたのも電車のデッキからだったみたいだし、もう国境の一つや二つ越えてんじゃないかしら」
一体どんな規模の旅行なのだろう。
「そうなるとわざわざ呼び戻すのも悪いし、私はこの近くに友達も居ないし、最悪、モーラが帰るまでホテル暮らしでもするわ」
なんだか投げやりな笑顔だった。なるようになれ、そんな雰囲気が今のジェーンから感じられた。実際焼け出されてみないとわからない心境だろうが、ある意味では前向きなのかもしれない。
また、彼女が今の時間までガトーの部屋にいたのは、彼がちゃんと起きるかどうか心配だったから、だそうだ。お人よしというかなんというか……。
「恋人は居ないのか?」
「私?いたらホテル暮らしなんてしないよ」
まあ、言われてみればそうだった。昨夜の恩はあるというものの、こんなことになってしまった以上はガトーになす術も無い。とりあえず彼はシャワーを浴びることにした。立ち上がってジャケットを脱ぎ、脱衣所へ向かおうとしたガトーの背中にジェーンが呼びかけた。
「あ、朝ごはんがあるけど」
ダイニングテーブルの上には確かに朝食らしきトーストとスクランブルエッグがあった。
「冷蔵庫、勝手に使っちゃった。ごめんなさい」
ジェーンは申し訳なさそうに告げると、テーブルにコーヒーのマグカップをコト、と置いた。料理はまだ冷めていないようで、コンロにかかった鍋の中からスープの湯気がたっている。そういえば腹も減ったな。ガトーは椅子に腰を下ろして「いただこうかな」とジェーンに声をかけた。少し嬉しそうな顔をしたジェーンは、ボウルにスープをよそい、ガトーに差し出す。おいしそうな匂いだった。
「どうぞ、召し上がれ」
ジェーンも自分の分を注いでガトーの向かいに腰を下ろす。スクランブルエッグは程よい半熟具合だったし、スープは薄すぎず濃すぎない味がとてもおいしかった。うまいな、と言うと、ジェーンが今度は満面の笑みで、ありがとうと返した。
普段ガトーはあまり料理はしないし(下手なわけではないが)、したとしても本当に簡単なものだけで、朝食はいつも早朝から開いているファーストフード、昼食は例の如くCrepscule。こんな朝食もいいな、と彼は呟いた。
「さすがに朝はやらないよ、ウチは」
ジェーンは苦笑していた。ウチ、というのはCrepsculeのことだろう。
「そういうことを言ってるんじゃなくて、」
スクランブルエッグを口に運んでいたジェーンが動きを止めた。不思議そうな顔でガトーの次の言葉を待っている。
「行く場所がないんなら、私の部屋にいても、構わない」
「そのかわり、ご飯作れってこと?」
フォークを皿において、軽口を叩きながらジェーンがそう聞き返した。内心驚いているのがわかる。それは、そうだろう。言った本人が自分の言葉に驚いているのだから。
「そりゃ……ありがたいけど……」
困ったような顔をするジェーンに、無理もないな、とガトーは発言を後悔した。いくらなんでも男の家に、はいそうですかと転がり込むようなことはしないだろう。忘れてくれ、言おうとしたところでジェーンが更に質問してきた。
「ガトーさんは彼女いないの?」
どこか、『彼女がいるくせに』と含めたような言い方だった。いない。いたらこんなこと言わないだろう、と笑いながら言うと、ジェーンはまだ怪訝そうにこう言った。
「だって、お皿もカップもカトラリーもペアであるし……」
最後はどこか恥ずかしそうに言って、ジェーンは視線をテーブルに落した。ああ、とガトーは納得した。察しがいいというか目敏いというか。確かに意味もなく食器やらをそろえているわけではなかったが、実際のところ、今の彼には親密な異性はいなかった。そこまで説明すると、ジェーンは納得して、よろしくお願いしますと頭を下げた。
ほとんど使っていない部屋があるから、そこを使っていい。言いかけて、ガトーはやめた。シャワーを浴びてからでいいだろう。目の前の同居予定者に、ガトーはスープのおかわりを頼んだ。
20080226