Crepuscule



03

ガトーがシャワーを浴びてダイニングに戻ると、ジェーンが食器類を洗っているのが見えた。見えた、といっても近視のためほとんど見えなくて、食器類がカチャカチャと鳴る音と水道から水が流れ出す音でそう予想ができたと言う方が正しい。ベッドサイドのテーブルから眼鏡を取ってかけ、タオルで濡れた髪を拭きながらソファーに座ると、振り向いたジェーンと目があった。一瞬驚いた表情を見せたジェーンに、そういえば眼鏡は家でしかかけないからな、とガトーは思っていた。

「悪かったんだね、目」

さも意外そうに言いながら、彼女はダイニングテーブルを拭いている。何から何までさせてしまって申し訳なくなる。たとえジェーンがこの家の居候という立場であっても、だ。

「ああ、普段はコンタクトだからな」

マットな光沢を放つメタルフレームに、弦の部分は白いセルフレームの眼鏡だ。家以外でかけない理由は、それがカジュアルすぎるデザインと思っているからだ。
ドライヤーを取り出して、男性にしては長めの髪を乾かすガトーを、ジェーンはニヤニヤしながら眺めていた。

「なんだ」

気になるので、ドライヤーを止めて彼女に聞いてみる。ダイニングの椅子に腰掛けて一息ついている彼女は本日何杯目かわからないコーヒーのマグカップを置きながら言った。

「髪乾かすのが色っぽいな〜と思って。こう……首を傾げてるとことか」

褒められているのだろうか、ガトーにはそう思えずに、むしろなんだかからかわれているような言われように感じた。まだ見つめられているようではなんとも居心地も悪いので、まだ化粧も落していないジェーンを「浴びてこい」と言ってシャワールームへ追いやった。
髪を乾かし終えて、自分もコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、シャワールームのドアが開く音がした。次いでペタペタと人が裸足で歩く音がしたのでふいに視線を上げると、ガトーはその瞬間にマグカップを床に取り落としそうになった。

「着替え、あるかな?」

ジェーンがバスタオルを体に巻いただけの姿で途方に暮れていた。体からは湯気が立ち上り、髪の毛の先からしずくが床にたれ落ちている。普段なら気にすることも今はどうだっていい。
いつもどおりに下着、手洗いしちゃった。シャワールームに干してるけど良いよね?ジェーンがそう説明するので、彼女が身につけるべきものがなくなってしまったことがわかった。が、

「あ、あるわけないだろう」

「いや、女物の服じゃなくて、ガトーさんの。貸してもらえないかな?」

「…………私の下着を履くつもりなのか」

「ダメかな?」

ダメと言うか、なんと言うか、まあ、ダメなのだ。ガトーにとって、自分の下着を他人が履くという行為はなんにせよ耐え難いものだった。まして異性が、である。沈黙しているガトーにジェーンが追い討ちをかけた。と言っても本人にそんな自覚は無い様で、心底困った表情でこういっただけである。

「ダメ?じゃあ、ガトーさん、私の下着買いに行ってくれるの?」

観念してガトーは新聞をソファーに、マグカップをサイドテーブルに放り出してクローゼットの中を探した。なんでジェーンに私が下着を貸さねばならんのだ。しかしこの状況では他にどうすることもできない。女性下着店に入るのだけは、避けたかった。下着が乾くまで待っていろとでも言いたかったが、あんなあられもない格好では更に自分が困ってしまう。大体本人に自覚があるのだかないのだか……

「ほら」

ぶっきらぼうに新品の下着と、部屋着の上下を差し出した。ジェーンはありがとう、と笑顔で告げると再び脱衣所に舞い戻っていった。やれやれとガトーも再びソファーに腰を下ろし、読みかけの新聞の続きを捲っていたが、その途中でまた視線を上げた途端に新聞が床に落下した。偶然ではない。ガトーが取り落としただけである。

「なんでお前は上しか着てないんだ!」

「え?履いてるよ。ほら」

ジェーンがぺろん、と上着の裾を捲ってみせるとたしかにやや大きめのボクサーパンツがそこにはあった。下半身のシルエット、ついでにくびれたウエストとへそが丸見えになってしまい、ガトーは思わず赤面して怒鳴ってしまった。

「見せるな!」

「……なによぅ。このズボンゆるゆるだから履けないんだもん」

部屋着の上が大きすぎて、まるで下半身になにも付けていないように見えるジェーンは、それ以上何も言わずに髪をタオルでごしごし拭きながらガトーの隣に膝を抱くようにして腰掛けた。部屋着の下はソファーの背もたれにかけている。彼女は新聞を覗き込もうとしてガトーの肩に顔を寄せてくる。石鹸の匂いがガトーの鼻腔を掠めていった。

ポタリ

「…………」

ポタリ

「…………」

ポタリ

しばらく黙っていた二人だったが、新聞紙に3つ目のシミができたところでガトーはジェーンのほうを腹立たしい様子で振り返った。

「髪を乾かしなさい」

「自然乾燥」

ジェーンは悪びれもせず自分の頭を指差しながら言った。ガトーは、ジェーンの首にかけられていたタオルをひったくると、容赦ない力で彼女の頭をガシガシとふきだした。

「痛い!いーたーいー!」

「床までぬれてるじゃないか!ほら、ドライヤーで乾かすぞ」

口で言ったところでどうせ聞き入れやしないだろうとガトーはドライヤーのスイッチを入れてジェーンの髪に熱風をあてた。ジェーンはおとなしく、されるがままになっている。まったく、男の私がドライヤーで乾かすのに、なんで女のジェーンが自然乾燥なのだ。ガトーはとりわけジェンダー差別に敏感なほうではないが、彼女の無頓着ぶりにはさすがに文句の一つもつけたかった。濡れた髪が指の間をすり抜ける感触は、滑らかで心地よい。

「自然乾燥なんて……髪が痛む。……せっかく綺麗な髪なのに」

最後の言葉はドライヤーの音にかき消されてジェーンの耳には届かなかった。熱風に煽られた髪はゆらゆらと無造作に舞っている。ガトーはまるで父親になったかのように感じていた。元来世話好きというか、面倒見のいい男である。それが仇となった今の状況を、彼は後悔していた。だからといって今放り出すわけにもいかない。右手でドライヤーを、左手でジェーンの髪をとかしながら半ば諦めにも似た感情が彼の中にあった。

「ほら、終わり」

ドライヤーのスイッチを切ると、ジェーンは不思議そうに髪の毛を弄りだした。無頓着どころかこれでは狼少女か何かに社会性を植えつけるような作業をしている気分になる。

「ありがとう!」

ジェーンがどこか嬉しそうに、頭を振って乾いた髪を弄んでいる。無邪気だな、ふと微笑がこぼれた。床に落ちたしずくをタオルで拭くように命じて、ガトーは奥の部屋のドアを開けた。

「(掃除をすれば十分暮らせるかな)」

見回したところ、セミダブルのベッドと据え付けのクローゼットがうっすらと埃をかぶっている他に、たいしたものは置かれていない。使わなくなった小さな折りたたみテーブルを出して、スツールを買えばジェーンの部屋の出来上がり、だ。東向きの窓にかかる薄汚れたカーテンを開けると、すでに真上に近いところまで登った太陽の光が部屋に差し込む。空気中の埃がキラキラ反射している様子は、とても美しいものに思えた。
元々その部屋は寝室として使用されていたが、今は使用されていない。ある時からガトーはリビングの横にロフトベッドを構えて、そこで眠るようになった。

「(もう、どれくらいになるかな)」

せいぜい一年も経っていないだろうが。ガトーは思い出を懐古する自分を嘲笑した。

「拭いたよ!あれ、なにこの部屋?おっきいベッド!」

ジェーンがドアの向こうから顔だけで中の様子を伺ってくる。いかにも不思議そうに部屋中を見回すので、ガトーは、はて、どの程度ジェーンに説明すべきかと思案をめぐらせていた。

20080226