Crepuscule



06

『今日もいい天気!』

ジェーンは石畳を歩きながら軽く背伸びをした。午前中はアパルトマンに、午後は物件探しと買い物に、頭の中で予定を立てながらバス停に並んだ。周りは出勤のためのスーツ姿の人ばかりで、まだ時刻が早いことを示している。普段よりも早く床に着いた所為か今朝は早めに目を覚ました。
昨夜の記憶は、ガトーの弾くピアノを聴いているところで途切れていた。自分が酔っ払っていたのは覚えている。酔っ払いはするものの酒には強いし、二日酔いも経験したことはない。キッチンの物音に目を覚ましたガトーから、自分が眠り込んでしまったあとに寝室へ運ばれたことを知った。寝室はシーツからブランケットまで新しいものに変えられており、昨日の昼間にガトーが買い込んできたものであることを朝方に気づいた。気を遣うことないのに、とも思ったが、昔のままのベッドで眠るのはさすがに憚られるようにも思った。だからジェーンは礼だけしか口にしていない。
そのままシャワーを浴びて朝食を作り、乾いた自分の服を着て出かけた。化粧品などはもちろん持っていないのですっぴんのままだ。

『それにしても、今日も明日も休暇なんて』

自分は一週間の休みだがそれは棚に上げてガトーの三連休を羨ましくも思ってしまう。基本的に今のCrepusculeはモーラとジェーンとで切り盛りしているので定休日以外の休みはもらえない。普段自分から言い出す休みはもらえないのでこの一週間の休みはありがたい。これで自分に災難が降りかかっていなければ。急に休みを言い渡したモーラのことも、少し恨みがましく思った。
ジェーンは定刻よりもだいぶ遅れているバスに乗り込みながらこの一週間をどう過ごそうかと思いをめぐらせた。
単純に一週間の休みがもらえたのなら、自分もモーラのように旅行に出かけたい。南の方の片田舎にでも行ってゆっくり過ごしたかった。

オフィス街のラッシュを過ぎて、アパルトマン近くまでバスを乗り継いだ。ガトーのマンションからはけっこう離れている。焼け落ちた元・我が家はもう近くだった。はやる気持ちがジェーンの足を急かす。思わず小走りになりながらジェーンが眼にしたそれは、見る影もなかった。

「うそ……」

かろうじて残った鉄骨が申し訳程度に建物の形をとどめている。崩れ落ちた外壁、そのところどころに見え隠れしてる、元住人の持ち物や浴室のタイル。思っていたよりもひどい状態で、鉄骨も今にも崩れ落ちそうなほどの有様だった。
一夜明けた所為か人ごみなどはなく、数人の元住人と思しき人たちが焼け跡から何か焼け残ったものがないか探していた。見知った顔もチラホラと窺われる。傍らには消防局や警察もいて、焼け跡を調べている。おそらく死傷者の把握や出火元の確認でもしているのだろう。
同じようにジェーンも焼け跡の方へ歩き出した。そのとき、

「ジェーン?」

自分を呼ぶ声に、ジェーンは振り向いた。

「バニングさん!」

このアパルトマンではジェーンの隣の部屋に住んでいたサウス・バニングだった。火災による火傷などの怪我も無い様でほっと安心する。二人はお互いに駆け寄って無事を祝った。父親のようなハグに、ジェーンは思わず涙をこぼした。

「心配してた、お前だけ姿が見えないもんでな。消防局は焼け跡からは誰の遺体も出てないって言ったが……いや、無事でよかった」

「ごめんなさい、実は……」

ジェーンは簡潔に自分の置かれている境遇を語った。転がり込んだ先のことは伏せて。別にやましいこともないが、なんとなくそうした。色々詮索されるのがわずらわしいのと、話がややこしくなるのを防ぎたかったからかもしれない。
バニングも自分のことを話してくれた。彼は別居中だった妻の家に世話になるらしい。事情が事情なので案外あっさりと迎えられ、これがきっかけで復縁にでもなれば皮肉なもんだとバニングは笑った。

「ああ、そうだ。お前さんに渡さなきゃいけないものがあるんだ」

来な、とバニングが手招きをするので、彼の後ろをジェーンは追った。焼け跡を物色している元住人がジェーンに声をかけてくる。心配した、無事だったのか、など。こういうとき、ジェーンは自分が一人じゃないことを実感し、人とのつながりを嬉しく思う。
バニングは路肩に止めた自分のクラシックカーのトランクからあるものを取り出した。

「これ……」

「必死で逃げ出したと思ってたのに、気づいたら抱えてたんだよ。ちょいと焦げてるが」

それはジェーンがここに来て初めて描いた絵で、一目見て気に入ったバニングに譲ったものだった。アパルトマンの窓から見た、青空とビル街を水彩で淡く描いたもの。確かに左上が焼け焦げているが、焼けてしまったと思っていた作品が残っていた喜びのほうが大きかった。バニングはそれをジェーンに渡すという。

「だってこれ、バニングさんが気に入ってくれたものだし……」

「いいんだよ。お前さんが生きてりゃまた絵を描くこともできる。新しいのができたら、それを俺にくれ。それでいいんだ」

何も残ってなかったら、お前だってつらいだろう?バニングの言葉にはそういう意味が含まれているのだろう。焼けてしまったものばかりだが、一つだけジェーンは取り戻すことができた。脇に抱えてまた涙ぐむジェーンに、バニングは連絡先を渡した。ここから電車を乗り継いで一時間ほどの場所に妻が住んでいるという。しばらくは会えないこととなるが、ジェーンも自分の携帯電話の番号を伝えた。

「落ち着いたら、飲みに行く」

バニングは運転席の窓からそう言って去っていった。彼もCrepusculeの常連なのだ。

ジェーンは焼け跡を眺めていたが、ふと目に留まるものがあったので近づいて瓦礫をどかしてみる。青い光が見えた。そこには一つの小瓶が転がっていた。コバルトブルーの水彩インクのビンだった。一番のお気に入りの色な上に製造中止のメーカーのものなので、めったに使わないものだった。

「よかった……」

何か残っているものがないかと思ってやって来てはみたものの絶望的な状況で一度は諦めたけれど、大事にしまっていたこれだけでも無事でよかった。他のものはもう残ってはいないだろう。ジェーンは少しばかりの悲しみと共に、その場を後にした。



ガトーは一人でピアノを弾いていた。たまには部屋の空気の入れ替えも必要だと感じ、平日の昼間ということもあってドアは開けている。昨夜ドビュッシーを弾いた所為か、今日も同じ作曲者の曲ばかり選んだ。昨日は滑らかなアルペジオに少し苦戦したので「2つのアラベスク」を弾いてみたが、少し練習をしなければならないかもしれない。ずいぶん長いことピアノを弾いていないため、昼間の光に照らされたピアノには埃も見られた。ウエスで軽く拭いて、鍵盤の音を確認する。そろそろ調律したほうがいいのかもしれないな、とガトーは鍵盤の重いはね返りを指先に感じながら思った。
落ち着いた曲を、と思い、サティの「ジムノペディ」を選んだ。ゆったりとしたメロディは和音と単音の繰り返しで構成されている。ギリシャの神話から構想を得たこの曲はとても心が安らぐ。弾いている途中で、玄関のドアが開く音がしたが、ガトーは演奏をやめなかった。

ジェーンには鍵を渡している。昨日買い物に行ったときに合鍵を作った。自分は明後日から仕事に行くので、自分が不在の間に彼女が出かけることもあるだろう。特に深い意味などないし、ジェーンもあまり考え込むこともなかった。本当に短い間の同居生活なのだから。

寝室に荷物を置く音が聞こえ、続いてジェーンが冷蔵庫を開けている音が聞こえる。ふと壁の掛け時計に視線をやると昼時だった。今日は何が食べられるのだろう。ジェーンが住むようになった昨日から、食事が楽しみになっている。以前はそんなことはなかった。以前、というのはこの家に自分以外の誰かが居た頃のこと。同棲していたわけではなく、彼女は気が向いたときに泊まりに来るだけ。よく映画だ買物だと連れ出された。食事はいつも外食で、思い出してみれば彼女が作った料理など一度も食べたことが無い。当時、ガトーはそれを不思議にも思わなかったし、不満でもなかった。料理ができなかったのはその技術が必要とされなかっただけで、つまりニナは所謂『お嬢様』育ちの少女だった。我侭なところが可愛らしいといえばそうなのかもしれないが、自分の思い通りにならないとひどく気分を害していた。だから連れまわされ、振り回され、そして自分は疲れた。自分だけではなかった。きっと彼女も疲れていたのだろう。酷い終わり方だった。

「ジムノペディ」を弾き終えたガトーは、ショパンの「エチュード、ホ長調、op10-3」の楽譜を取り出した。「別れの曲」である。


奥の部屋から届く穏やかな曲に耳を澄ませていたジェーンは、聞き覚えのあるメロディが始まると微笑を浮かべた。昼食はサンドウィッチ。挟み込む具を冷蔵庫から探していると、「別れの曲」は激流のような旋律を聴かせた。一瞬、驚いて視線を移そうとしたが、なぜかできなかった。昨夜のことを思い出す。別れ、それは誰しもが経験すること。ジェーンはマスタードのビンや鶏肉、生野菜を取り出しながら昨夜の話を思い出した。ガトーにも恋人が居ただろうなんて、奥の寝室から想像できるし、当たり前といえば当たり前なのに、なぜだろう、昨夜はそれに酷く動揺した。鍵盤を叩きつける様な旋律、怖いとは思わない。自分と同じ痛みだと思った。お互い、忘れていないのだろうか。傷の舐めあいのようで、自分たちが酷くみっともない生き物に思えてきた。ガトーが自分を求めてくることなどないだろうとは思うが、どうしても意識してしまうし、もしそうなっても拒むつもりだった。あくまで、短い間の同居生活、その相手。そう、だからそんなことになんてなるはずが無い。自分自身に、言い聞かせるようにジェーンは首を振った。

20080305