虹のワルツ

46.君にあげたいものは君がくれたもの(佐伯 瑛)


好き勝手な言い放題をしていったヤツを見送るまでもなく見送って、オーダーされたパスタセットふたつに取り掛かる。
三時半からの一時間の準備時間が終わって、ここがバーになるまでの時間はかなり人が少ない。今日はヤツらのバンドがライブをやるらしいから、夜になると忙しくなるかもしれないなと、俺はサラダをこしらえながら気合を入れなおした。
大学に入ってすぐに始めたアルバイトは、珊瑚礁での経験を生かせるし、この先俺が目指している道にも絶対に役に立つと思ってのことだった。
『ねえねえ瑛くん、ここならきっと瑛くんにぴったりだと思うよ』
おとぼけのアイツに勧められて、二、三度客として訪れた。確かに高校時代はずっと珊瑚礁で鍛えられただけあって、アイツの目に狂いはなかった。
チェーン店が出すいい加減なコーヒーとは比べ物にならないし、何より店の雰囲気もいい。どこか珊瑚礁に似ている、時が止まってしまったような空間は心地よく、そして時々俺の胸を締め付けた。
大学で経営・経済と、それから経営工学の授業もとって、いつか自分の店を持つ。
そのとき隣にいるのが、ずっとアイツならいい。
仕事中なのにこんなことを考えて気恥ずかしくなるのは、窓際の席のカップルのせいだった。

女性のほうは時々ここに来る。まあ常連とまではいかないけれど俺が顔を覚えてるくらいの客。
ロングヘアがよく似合う落ち着いた感じで、同い年くらいに見える。
珊瑚礁時代から俺の頭を悩ませ、アイツをやきもきさせていたようなミーハーな女性とは違って、いつもケーキセットを頼んでゆったりと文庫本を読み、一時間ほどで退席する。俺なんかじゃなくてこの店の雰囲気を好んで来店してくれる、この人のような客ばかりだったら俺だって楽できるのにとため息を吐きたくなる。
一方男性の方は、まあ言っちゃ悪いけどどう見たって不釣合いな感じ。彼女にもこの店にも。アレだ、針谷が言ってたハードロックカフェとかいうところにいそうだ。なんとなくだけど。
大柄でいかめしい顔つきで、前時代的な雰囲気を全身に纏っている。髪型なんてリーゼントめかして、いや俺のは違う、俺は後ろに撫で付けてるだけ。
わかりやすく言うとその筋の方?みたいな。針谷がビビッたように、俺も一瞬どうしたものかと思った。
横にいるのが彼女じゃなかったら。いや、あの彼女の横に何故こんな人が?とも思ったけれど、一緒にいるのだから分別はある人間だと信じたい。
それに傍から見れば不釣合いかもしれないけど、本人同士がいいならそれでいいんじゃないか。
ちらちら様子を窺う限りでは、二人とも穏やかに談笑しているし。彼女が彼のブレーキ役になっているとしたら、立派な社会貢献にもなるだろう。間違いない。
休憩から上がってきたマスターはぎょっとしてたけど。

時折二人ははにかむように笑いあう。
ああいう空気には俺だって覚えがあった。
まだ高校生のころ、アイツに連れまわされるのにも慣れてきた頃。水族館の水槽を一緒に眺めたり、冬の海を歩いたり、暗くなった帰り道を送っていくときだったり。
思い出すたびに、これがいわゆる“甘酸っぱい”ってヤツなのかと我ながら恥ずかしくなって煩悶したりするけれど、まあいい思い出にはなっていると思う。
今はああいう感覚を覚えることは少なくなったけど、ずっと凪いでいる海のような穏やかな空気も、俺は大切にしたい。
「なーんて……」
「何か言ったかい?」
カウンターで伝票の整理をしていたマスターが、俺の独り言に怪訝な顔をした。
「いえ、なんでもないです。出ます」
慌てて普段どおりの顔を作って、パスタの皿と粉チーズやらタバスコやらをかかえて窓際の席へと運んだ。
低く小さな声は、俺には聞き取れない。
上背のあるカップルのわりに、なんて失礼なことを考えながら(思うだけならタダだ)サラダの入っていたボウルを厨房に下げようとすると、マスターに止められた。
「佐伯くん」
「はい?」
やや小さな声で、マスターはガラスケースの中を見ながら、
「ザッハトルテが一切れあまってるんだがね」
「はあ……?」
「なに、今日はバレンタインじゃないか」
「そうですけど……あ」
サプライズだとか、そういうものが好きな人だった。
「わかりました。僕がプレートを作っておきます」
「よろしく。じゃあ、豆を挽いてくるから」
「はい」

『甘いものが嫌いだったらどうしよう』
アイツは、そんなことを考えていたらしい。
『だってあの人はとても上手になんでも作るから、わたしのじゃ見劣りしてしまうかもしれない』
そんなわけあるか。買いかぶりすぎだ。
今より少し幼い顔の、おかっぱのアイツが笑っている。

大きな白いスクエアプレートにザッハトルテとホイップクリーム、くし型切りにしたオレンジ二つ、洋ナシとリンゴのシャーベット、ミントの葉、糸飴。
最後にチョコレートで文字を書いて、完成。
シャーベットが解けないうちに、食後のコーヒーを楽しんでいる二人に歩み寄る。
「失礼します。こちらバレンタインの特別デザート盛り合わせでございます」
にっこりと笑いながら声をかけると、案の定二人はぽかんとしている。そりゃそうだ。セットメニューはデザートか飲み物かの二択だから。
「サービスですので、お代はいただいておりません」
ダメ押しにもう一言付け加えると、彼女は困ったように笑った。嬉しそうではあるものの。
「……いいんですか?」
「ええ。――どうぞ」
“いつもご来店いただいてますから”と言いそうになってなんとなくやめておいた。
「ありがとうございます」
口元に片手を遣りながら謝辞を述べる彼女と、どうしたものかわからない風な顔で会釈だけする彼。
なんだか、見た目の割りに幼いのかもしれないな。
やっぱりアイツを思い出す。
買出しに行ったまま、まだ帰ってこないアイツを。

20101012